2018年5月 8日目:板東から下野へ侵入


今日の朝定食はキムチ納豆定食。キムチが加わるだけでも食べ応えが全然違う。
この日でお世話になったホテル糀屋ともお別れとなる。一番広い部屋を用意してくれてとてもゆっくりとできた。ここ糀屋のおばあさんはいつもおっとりとして、今日はどこへ行ってきたの?と聞いてくれる。将門の事をしゃべったりしたけど、どこまで通じたか。

おばあさんに別れを告げ糀屋を後にした。今日は小山市までの移動日となるので、少しづつ気になるところを訪れる。
まずは今まで見ていなかった小貝川へと向かった。初めて水海道駅の東側へ渡る。大きな国道を通りすぎると土手に到着した。土手はサイクル道路となっていて、気分よさげに走っている自転車と時々すれ違う。自転車をヒラリと交わし川を見ようとしたが森が邪魔をして見えない。
川が見える所を探しウロウロとしていると、土手の隅に自転車と靴が綺麗に置かれていた。魚を釣りに来たのか?泳ぎに来ているのか?
少し北側に行くと田んぼが見えてきて川沿いまで降りる事が出来た。
満々と満ち溢れている水に、それを覆わんばかりの夏草が茂っている。自然の力強さが溢れるこの場所で泳ぎに来ている誰かがいる。その人こそ典型的な板東人の方であろう。
図書館の何かの本で見たのだが、この小貝川は鬼怒川とは違い水源を持たない川らしく、鬼怒川が急進的に洪水するのに対し、小貝川は浸透型の洪水をするようだ。なので、あえて洪水を起こして畑に栄養を行きわたらせる、ということをおこなっていたらしい。この方法もパワフルな板東らしい。
私たちツカサ人にはこの川で泳ぐという選択肢はないのでここで退散する。

駅へ戻り下舘行きの電車を待つ。お別れのマックスコーヒーを購入しそのまずさに震える。そしてマックスコーヒーはなぜまずいのか?を延々と論議し電車を待った。
相変わらず混んでいる関鉄。その中で尽きぬ議論を続ける。地元の方に聞いてみたい気もしたのだが、繊細なる蓮の糸のような私の心はそれを許すはずもなかった。
そして、その電車がやっと下舘駅に着くころにぼんやりと結論がでた。そうマックスコーヒーは哲学なのだと、深みにはまればはまるほど、追求すれば追及するほど、無限の広がりを見せる宇宙のような存在なのである。

下舘駅の混雑ぶりはすごかった。つくば山以来の人のなみにもまれ辟易とする。どうして混雑していたのかというと、この駅から真岡鉄道というSLの電車が出ているところなのだ。そのSLに乗りにくる人達が多いみたいで、皆さんそのホームへと流れていった。
ついていってみたところこのような光景があった。先頭車両が機関車っぽいけど、後ろの電車はただの車両だ。これはおそらくファンでないと区別がつかないだろう。SLが蒸気機関車と何が違うのかもよく分からない。

下舘駅を出てみると一気に人が居なくなってしまい、孤独の深淵へといざなわれてしまった。この感覚はどこかで味わった事があるぞ?そうだ!先日のつくば山の時の再現なのだ。あの時も一歩、道を違えただけでまったく人が居なくなってしまった。
しかもこの町はつくば山が一番綺麗に見える町として売り出しているのに、まったく見向きもされないのだ。なんたることか!
・・・・・孤独、深い闇、マックスコーヒーの不味さ、様々な不快なものが渦巻いている下館市。その中に於いてこの青い空とつくば山だけは、私たちの心に一筋の爽やかなる風を送り込んでくれる。この景色に救われた方々は膨大な数にのぼるに違いない。
建物が邪魔でそこまで綺麗でもないが、山の影はくっきりと見えている。これで稜線がもう少し見えれば綺麗だと思うが。

この駅界隈で昼ごはんにうどんを食べ、周辺をブラブラと散歩してみる。駅前には筑西市の役所機能が入ったビルディングと立体駐車場があり、少し東北へと進むと古いけど大きな市役所跡があり、その近所にかなり高価そうな図書館が建っていた。図書館は無駄に立派だったけども利用者もかなり多かった。同じ都市でも水海道とは違うタイプの都市に育ちつつある。
図書館脇の五行川とつくば山。こちらの方が駅前より綺麗に見える。板東に来てからというもの常につくば山に懐かれている。いかにも神の山だ。
そんな神の山に見られているにもかかわらず、この付近で警察が乱暴な運転をしてパトカーを縁石に乗り上げていた。猛々しいといえばそうかもしれないが・・・・。

下舘から小山へとやってきた。小山駅は新幹線が止まる程の大きな駅で駅前も今までにないくらい店がたくさん並んでいた。人もたくさん居て賑やかな町となっている。小山駅の西側を思川が流れ、その向こうが田園地帯だ。駅より東側が町になっていて工場などもたくさんある。
駅周辺をブラブラと散策をする。思川方面に向かって歩いていると、「小山評定跡」という碑が建っている場所があった。これは1600年に徳川が会津の上杉征伐に向かっている時に、畿内で石田が徳川に叛旗を翻したので、ここで評定を開き、思川を使って江戸へ行き関ケ原へと向かった場所だ。
豊臣は徳川を警戒して東海道沿いに恩顧の大名を配置していたのだが、その恩顧の大名達がことごとく徳川へと寝返った。小山評定で徳川への忠誠を誓う流れを作ったのが、福島と山内らしい。福島は石田嫌いなので分かるが、山内なんかがなぜそんなに積極的だったのかよく分からない。
そして、ここで徳川についた人々はみんな出世をし、それを理由に「開運の町おやま」として売り出していた。

徳川も使った思川沿いには祇園城跡があった。城跡の部分だけが急に4〜5m高くなっており、かなりかさ上げをしたように感じる。その城跡の切岸や土塁、堀跡などがよく残っていてブラブラと散策するにはちょうど良い所だった。日本人は思川でバーベキューをし、城跡散策は外人観光客が多かった。あれ?外人の方が文化的?いや異国の文化には触れたくなるものなのだ。
祇園城跡から南側には須賀神社があった。田原藤太が将門討伐の願いを叶えてくれたお礼に京都の祇園社より分祀したそうだ。
藤太の成金趣味が出ていて、将門を祀っている神社とは大違いだ。憎き藤太をお参りするわけにもいかず、一瞥をくれただけで退散した。

須賀神社から少し南に行った所に小山市文書館という建物があった。なにか分からないので、とりあえず入って中に居る人に聞いてみた。
公的な文書は3〜5年で廃棄されていくのでそれを保管していく場所なのだという。初めて聞いたが帰ってからネットで見てみるとあちこちにあるようだ。色々な文書を保管しているので研究をする人にとっては重宝するかもしれない。

文書館を出て線路の東側へと行ってみた。こちらは住宅街となっているのだが、若い人がぞろぞろと外に出て散歩をしている。さすが新幹線が止まる程の町だと思っていたら、その中の一人が、私の目の前で背筋を伸ばし「コンニチハ!」と言ってきた。あれ?外人だったの?と、驚いてしまった。よく見るとアジア研修センターなるビルのようなところがあった。そこからかなりの人数が出てきている。日本の町を観光しているけども、会うのは外人ばかりだ。なぜだろう?

この日の夜ごはんは小山うどんの松隣へ。小山市産の小麦粉を使ったうどんで、適度なコシとつるつる感がとてもおいしかった。ただ私がイメージしていた地粉うどんとは少々違ってたかもしれない。もっと小麦の香りがするものだと思ってた。
夜、小山駅前のコンビニに寄ってみてまたまたびっくり。黒人とかブラジル人のような人が店員だった・・・・。あれ?日本人ってどこにいるのだろう?マックスコーヒー以来の謎に挑みながら都会の夜は更けていった・・・・・。



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