2018年5月 5日目:人が集うつくば山


花の都・水海道での初めての朝を迎えた。都ではあるが喧騒さもなく、落ち着いた雰囲気の中、朝ごはんの納豆定食をホテルの部屋ですました。
淀みない一面の淡空の中そこだけにひずみが生まれ、見るものを吸い込んでしまいそうな、そんな禍々しさと、そして神々しさを放っている。思へばこの板東の地に於いてそれは常に視界にとまる存在であった。そう、それが古代より神の山と信仰されてきたつくば山だ。
本日はその神の山へと向かう。つくば駅からバスが出ているのだが、そのバスの混みっぷりが半端ではなかった。40〜50人ほど並んでいて、ギリギリバス一台で収まったほどだ。昔より今に至るまで、ここまで信仰されている山も珍しいのではないだろうか。

つくば山は山頂が2つに分かれており、西側が男体山、東側が女体山となっている。
現在も続いているかは分からないが、昔々の時代にはこの山の麓で「かがい」という行事が行われていたそうだ。春と秋に、たくさんの男と女が集まり、歌いあったり踊ったりする行事で、性的解放も行うらしいのだ。その行事が「常陸国風土記」や「万葉集・高橋虫麻呂」に少し載っている。
たくさんの男女が集まっての性的解放とはいったいなんなのだろうか?またそういうことが必要とされたのはどういう理由からなのか?人間は社会の中では常に抑圧されている状態なので、社会から解放される日が性的解放なのかな、と思ったりもする。

つくば山を200m程登ったところにバスは停車した。そこまでは山のなだらかな部分で、ホテルや土産物屋、そして、つくば山神社があった。ひょっとしてこのなだらかな部分で「かがい」をやったのかもしれない。今は観光ホテルで賑わひ、昔は「かがい」で賑わったのだ。共に解放を求めているのではないだろうか。

バス停留所の付近にあった案内所で地図を貰い弓袋峠をしっかり確認し山へ向かう。登山口に神社があり、まずはこちらでお祈りをしてから登っていく。
木の根っこがボコボコしていて少し歩きにくかったが、それよりも人がたくさん登っている事にびっくりした。しかも、ここには山登りのベテランが多いからなのか、みなさんやたらとペースが速い。じっくりタイプの私たちはどんどん後ろから追い抜かれることとなった。
別段景色がいいわけでもなく、少し退屈な道をひたすらに登った。ちょくちょく道を譲りながら、休憩も挟みながらで、いつもと全然ペースが違ってなかなかに大変だった。

900メートルほどの山だけど登り始めが低い事もあるし、人がたくさん居て気を使うのもあって、登り切った時にはかなり疲れてしまった。
頂上は男体山と女体山の中間に位置するなだらかな所で、ケーブルカー駅兼展望台、土産物兼食事処がたくさんあり、人もかなりうごめいていた。山の雰囲気としてはかなり悪いと思うけど、こういう珍しい所もあってもいいと思う。
先に向かう予定の男体山側にあった「幸雲」という土産屋さんで昼ごはんとする。つくばうどんと山菜蕎麦を注文。そばやうどんはコシが弱いのが気になったがダシがうまくてとても良かった。ふくれみかんというものを使った七味もみかんの香りが強くてウマかった。

うどんを食らい力をつけてから、男体山と女体山で展望を楽しんできた。頂上は岩場になっていて、みなさんギリギリのところに立ってスリルを楽しんでいる。とにかく人が多いのであまり落ち着ける場所では無かった。国定公園特別保護区らしいのだが、これだけ開発してて何を保護しているのだろう?
頂上の展望台から将門の舞台を激写してみた。スモッグでも出ているのかやたらと見通しが悪かったのが残念だ。
まずは車の如く舞い回ったと言われる良正の拠点、水守方面。写真の真ん中奥付近がそこだと思う。水の便の良さそうなところだけに、船で車の如く舞い回ったのだろう。

下妻方面をみる。写真真ん中が中世まであったと思われる鳥羽の淡海跡の水田地帯だ。その少し手前の陸地が国香・貞盛親子の根拠地石田で、この付近で将門記における最初の戦いが起こったのである。
将門記を少し参照してみよう。「野本・石田・大串・取木等の宅より始めて(ー略ー)皆悉く焼き巡る。(ー略ー)哀しき哉、男女は火のために薪となり、珍財は他のために分かつところとなりぬ。(ー略ー)その日の火声は、雷を論じて響きを施し、その時の煙色は、雲を争いて空を覆えり。山王は煙に交わりて、巌の後ろに隠れ、人宅は灰の如くして、風の前に散りぬ。(ー略ー)矢に当たりて死せる者は、思はざるに父子の中を別ち、盾を棄てて遁るる者は、計らざるに夫婦の間を離れぬ。」
鳥羽の淡海跡の対岸(奥側)に大串があり、写真中央の島のような所に野本(現在は赤浜)があり、その少し手前に石田があり、桜川を越えて右手に行くと取木(現在は本木)がある。(赤城宗徳氏「平将門」を参照)
この土地で、火の為に薪となり、雷を論じ、煙は空を覆っていたのである。どうであろうか?想像するだに哀しいことではないか。
この将門記を書いた方も、きっとここで地形を確認したことであろう。

男体山より始めて、女体山まで登り巡った。楽しきかな、男女は悦のえくぼを春花に含み、親子は人煙に交わりて巌の後ろに隠れぬ。国吏万姓これを見て哀慟し、遠近親疎これを聞きて歎息す。
人にまみれる女体山から北への道をとる。一歩、たった一歩、道を違えただけで、人がまったく居なくなってしまった。ここからしばらくは人の居ない静やかなつくば山を味わうことが出来た。
そして筑波高原キャンプに到着し、ここから良兼の屋敷があった羽鳥を見てみる。
写真中央が良兼の屋敷があった羽鳥で、右手にある尾根を越えると真壁で源護が居た所になる。写真右上の付近の平野部に平真樹なる人物が居たようだが、これは良くわからないそうだ。写真には写っていないが羽鳥の左側は紫尾という地名で、菅原道真の三男・景行公が居て、良兼、護と共同で天満宮を建ててたが、何故か分からないが大生郷へと移ってしまっている。
この羽鳥は、「機織り」から来ている説もあって、この付近では当時高級であった絹が生産されていたとみられている。このような米以外の産業の歴史は注目されることが少なく、人の生き方も「農民」のくくりで限定的に見られすぎている気がする。

ここからは東へ向かい弓袋峠の南の谷を目指す。そこは良兼が恐怖に怯え、将門から逃げ隠れたところなので絶対に見ておかなければいけないだろう。
キャンプ場から弓袋峠の国民宿舎の所まで一時間程歩いたが、すれ違った人はたったの2人だった。私は今まで幻影を見ていたのだろうか?これがつくば山の魔力なのかもしれない。
国民宿舎に到着し、平坦地になっていそうなところを探してみる。しかし、ここがキャンプ場になっているせいなのか、地形がはっきりとは分からない。この写真がおそらく弓袋峠の南の谷と思われる場所なのだが、ひょっとするとこのキャンプ場自体が良兼が隠れたところなのかもしれない。

もっと下まで見に行きたかったのだが、つつじヶ丘のバスの時間が危険な事に気づいた。これが、良兼という悪党の手口だ。将門記にはここでは戦闘が無かったように書いているのだが、おそらく良兼がここで将門を引き付けている間に、後方で裏切りの手筈があったと思われる。後方で裏切りもしくは攪乱していたのが平真樹であると私は思っているが・・・。
とにかく急ごうと、今降りてきた道に踵をかえし、目を張り歯を噛みて、風の如く登って行った。バスに乗り遅れたら駅まで3時間は歩かねばならないだろう。
裏側の道はこのように岩場が多く、水の流れもあり、歩いていてとても気分のいい道だった。しかも、将門せんべいをかじりながら歩いていたので、鬼神のごとき力が湧いてきて、自然と歩く速度も上がり、時間にも余裕ができ一息つくこともできた。
良兼の策略を見事に看破した私たちは、意気揚々と水海道へと帰って行ったのだった。
夜ごはんをつくば駅の十割ソバ屋で食べたのが、少し微妙だった。物足りなさを将門せんべいで補いながら、その日の戦いは終わりを告げた。



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