2018年5月 6日目:将門のふるさと豊田


本日もホテルの部屋で納豆定食を朝ごはんにした。ホテル糀屋には共用冷蔵庫があるので、食料品や飲み物を買っておいて自由に食べたり飲んだりできてとても便利だった。
スーパーで買った茨城名産ほし納豆がウマい。お湯につけて食べるか、唾液でちょっとづつふやかして食べるそうだ。旨みが凝縮されていてチョコレートのようだった。これは是非試して頂きたい。お勧めはふやかしすぎないことだ。
かなり堅い食べ物ではあるが、こういうしっかりとした伝統食を土産物としてもっと売り出していって欲しい。

この日からは別段目的を決めていなかったので、関東鉄道の石下駅付近にある豊田城資料館を目指してみる事にした。豊田は岩井に移る前の将門の本拠地で、その周辺にも将門の史跡が多々あるし、資料館で詳しく紹介しているかもしれないと思ったわけだ。
すっかりお馴染みになった関東鉄道は、茨城県西部地区の南の端である取手駅から、北の端である下舘駅を結んでいる。小貝川と鬼怒川の間の集落を縫うように走り、ほぼまっすぐに北へ進んでいる。別段調べたわけではないのだが昔の地図をチラッと見た限りだと、下舘と水海道が都市になっていて人が集まる場所であったように感じた。そして、2つの駅を往来していた人は多く居たんじゃないかと思う。現在でもかなりの人がこの鉄道を使っているのは当時の名残なんじゃないかと思った。
その関鉄を使い、水海道駅から石下駅へと降り立った(天孫降臨)。駅のすぐそばに自転車預り所があり(猿田彦)、無料で自転車貸し出しをしていたのでありがたく使わせてもらうことにした。
この日はどんよりと曇りがちで少し蒸し暑いように感じた。しかし、自転車を手に入れた我々は、風の如く目的地へと向かい、ものの数分で豊田城へと到着した。
石下駅から500mほど東へ行ったところに、この変なお城は存在した。周りに高い建物は無いので、この付近だけ違和感のある空間となっている。板東市役所よりは大人しい感じだけども、中はどうなっているのだろうか。
資料館というよりは総合文化ホールで、敷地内には野菜直売所、城の中は図書館やイベントスペースも併設されていた。やたらと豪華なトイレに赤ちゃんスペース?変なプリクラの機械があって少し驚いた。文化資料館に今まで来なかった人を呼びたいという事なのか、それともイベントスペースが本来欲しかった施設なのだろうか?どこからお金を持ってきたのか気になるところだ。
資料館の展示を一応全部見たつもりだったのだが、なぜだかまったく覚えていない・・・・。展望台もつくば山の方が良かったのでなんとも言えない。人間を良心的な存在と仮定して考えるならば、新しいタイプの資料館を目指して作ったが、どっちつかずになってしまっている状態だと思われる。

せっかくなので併設されていた図書館に寄ってみたら、なかなか面白そうな本を2つ見つける事が出来た。稲葉氏が書かれた「関東中心将門伝説の旅」という本で、かなり詳細に将門伝説の事を書かれていた。もう一つは倭司丸氏が書かれた「逆賊将門」(だったと思う)という本で、こちらは赤城宗徳氏の説を批判しててこれも是非欲しいと思った。ただ両書共にそうとう手に入りにくそうではある。

板東平氏と源氏との関係のように訳の分からない豊田城を後にし、石下橋を越えて将門公苑を目指す。資料館で置いていた「石下町史跡マップ」を見ながら行ったのが失敗で、縮尺がむちゃくちゃでどこを走っているか分からなくなってしまった。と、いうよりも、将門公苑の看板が国道のどこかに出ているとばかり思っていたのだ。そうこうしているうちに「将門川」という変な川に到着した。
村上氏の本ではこの名前は古いものではないと書かれていた。豊田館の堀跡説もあるそうだが、川のような沼のようなところが勝手に掘の役目になっただけだろう。それよりもこの名前が「古いものではない」としか書けないとは、村上氏はなにを憚っているのだろうか?これはひょっとすると壮大なるストーリーが隠されているやもしれぬ。宿題としておこう。

さらに道が分からないまま適当に進んでいると、古墳のようなものを発見した。ここが六所塚と言われる前方後円墳で、将門の父親である良持の墓説もあるそうだ。
海音寺氏の「平将門」におそらくここの事を書いただろう文章がある。
「父の墓にある丘の松蔭に、人影の立っているのに気づいた。水田つづきの中に小島のように見えるその松山を、小次郎が、馬をひかえて見ていると、人影はすぐ木の間がくれに見えなくなった。」
この人影は将門の弟の四郎将平で、ここで父が亡くなったのを泣いていたのだ。
海音寺氏は自転車でこの付近を巡ったそうだが、おそらく鬼怒川のほとりからこの古墳を眺めて、イメージを高めたんだろうなと思うと、作家の想像力というものはすごいと思った。
この古墳の前で、膝をつき天を仰ぎ祈りを捧げていると、軽トラックに乗ったおじさんが声を掛けてきた。「何してんだ?」というような事を言われて、そのほかにも色々と話しかけられた。しかし、なまりがきつくてあまり聞き取れなかった。「この古墳で剣が発掘されていて、それが今は上野にある。」というようなことも言われて、上野=こうづけ=群馬と思ってたけど、どうやら東京の博物館の事らしい。
何を言ってるかよく分からなかったけれど、親切な方で将門の墓の場所や将門公苑の場所も教えてもらった。
「みんな知ってるから分からんかったら聞いたらええわ!」と言って機嫌良さそうに去って行った。しかし、外に出ている人を見つける事は出来なかった・・・。

指示どうり行ったつもりだったが、聞き取りが悪いのか、河川の工事をしていたからなのか、なかなか将門の墓が見つからない。
何度か行ったり来たりをしていると、川の方からフッと妙な気配を感じた。私は何者かに憑かれたかのように自転車を降り茂みの中へ入って行った。
すると、川の堤防と台地との間に、ある一つの空間があった。そこだけなぜか窪みになっている。
今日まで巡ってきた将門の史跡を思へば、他者を拒むこの空気というものがどこにでもあった気がする。空が雲で覆われているが如く、その雲をさらに煙が覆うが如く、何重かの霧のようなもので包まれていた。そっと手を差し伸べてみると微弱な気が流れ心地よさを与えてくれる。私は吸い込まれるように聖なる地に導かれた。(賽銭箱を見て現実に引き戻されたのだが) (※クリック拡大)
説明板にあるように、ここを通るときは下馬しなければ行けなかったのだ。そういえば私たちも自転車を降りてここに来たのだった。もちろん、他の方々と同じように祈りを捧げた。
ここは御子埋古墳群と言われている場所で、六所塚古墳だけでなく、85基もの古墳があったという。しかし、大半は壊滅しており、少し残った所も何故か有刺鉄線で囲まれていた。(入口はあるので入れる)
昔は川の堤防が無く、台地の部分が自然堤防となっており、その窪みにあるこの将門史跡や古墳群が、荒ぶる水の神を鎮める役割を担っていたのだろうと思う。すでに鎌倉時代には将門を祀っていたようなので、神よりも強いと思われていたのだろう。

ここで気を使いすぎたからなのか腹が減りすぎてしまい飯屋を探す。この付近に食堂は無かったので、石下大橋を越えた所にある常総やきそば屋へとやってきた。
日光だとか館林だとか見慣れない文字が書かれている。JO1グランプリってなんだろう?1位か2位になっているからともかくすごいのだろうと思う。
変なお菓子「やきそば太郎」をかけて食べるのだそうだ。見るからにしょぼくて、「あぁ〜〜」とか呟いていたのだが、食べてみるとウマい!ニンニクも効いてるし太郎のサクサク感がアクセントになっててとても良かった。ただ、量が少なめだったので大盛りを頼むべきだった。
ふと気になったが、この「やきそば太郎」はひょっとして「太郎貞盛」の事だろうか?貞盛を食らひ、恨みを晴らすといった意味合いがあったのかもしれない。これは今度行ったときは聞かねばなるまいて。

ちょっとひょうきんなキャラを装っている「やきそば太郎貞盛」を食らひ、後顧の憂いを断ちてもって将門公苑へと進み来たる。
周りを住宅に囲まれた一角が公苑になっていて、大きな石碑が立っていた。そこには豊田館跡、向石毛城跡の説明が載せられている。
将門の時代には毛野川の流れがまだ定まらず、河川沼沢に囲まれた要害の地であったと書かれており、その要害の地に貞盛の弟である繁盛の子孫が向石下城を築いたとの事だった。
岩井近辺と比べてみると、台地といえる部分が少ないように思える。良兼と本格的に争う事になってみては、やはりここでは守りにくかったのかもしれない。
落ち武者となってしまわれた将門公。身の丈程もある大弓を持っているのが雰囲気があっていい感じだ。板東市の銅像とは比べるまでもあるまい。

太郎貞盛だけでは食い足りないので、豊田城でやっていたイベントの屋台を目指し、ついでに香取神社を拝みに行く。囲いも何もなく前面には畑が広がっていて、とても開放的で明るい空間となっていた。将門を祀っているところだから、例の如くの雰囲気を思っていただけにこれには少しびっくり。
拝殿で祈りを捧げ、裏手も見に行ってみる。すると掃除をしていた方が機械を止めて挨拶をしてこられた。こちらも世間話のような感じで話しかけてみた。
掃除をしていた方は言葉を選んでるのか沈吟し、少し間があってから口を開いた。そのゆったりとした雰囲気に優雅なものを感じた。今日はたまたま掃除をしていたようだが、普段はこちらの宮司をなさっているそうだ。私が「こちらの神社は新しくて綺麗ですね。」と言ったので、この神社の事を教えてくれた。
こちらの神社は300年程前に今の香取神社となり、本殿もそのころ建てられたものだが、東日本震災の時に社が傾き、今はすじかいをして瓦もはきかえているそうだ。その前は人丸神社と言い、柿本人麻呂を祀っていたらしく、この付近の字も人丸というそうだ。それが香取神社の力が強くなってきたときに取り込まれたということらしい。
先ほどの軽トラックのおじさんはなまりがきつかったが、宮司さんはなまりがまったく無くて聞き取りやすかった。
その他にも興味深い話を色々と教えてくれた。この写真は本殿の裏にあった社だが、こちらはつくば学園都市開発の時に処分に困った人が持ってきたそうだ。実はこの社群が気になったので裏まで見に来たわけだ。
さらに、神主さんの家は武田信玄の末裔(これを聞いて関東なんだなと思った)、神社の4つの位(明階、正階、権明階、直階)、鬼怒川洪水の時の話、伊勢神宮詣りの話(年に3回行くらしい)、神社庁の話とかを聞かせていただいた。
少し気になったのが、橿原神宮の事をかしわばら神宮と言っていた事だ。一度だけ訂正して言っておいたが、あまり気にして無さそうだった。宮司なのに一番有名な神社を間違えて大丈夫だろうか?ちょっとだけ心配になる。

1時間も割いてご教授いただきありがとうございました。非常に楽しい時間でした。

このおしゃべりで空腹の事は忘れてしまい、豊田城のイベントはどうでもよくなった。
この日の夕飯は宿泊しているホテル糀屋でうなぎ定食を食べた。関東系のかば焼きだからなのかあっさりふっくらのウナギ。ウマい。ソバは香りが弱いのが少し気に入らなかったかも。



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