2018年5月 7日目:大生郷へ将平を訪ねて


毎日健康!朝の納豆定食。今日もほし納豆がウマい!
「茨城県の食事」という本で見たところ、徴兵制の健康調査で一番栄養状態が悪かったのが茨城県だったそうだ。ひょっとすると納豆定食ばかり食べてたのかもしれない。

本日は常総市の大生郷天満宮を目指してみる。ここは菅原景行公が、父である菅原道真公の遺骨を納めたところなのだ。景行公が常陸介となって赴任してきて、先日つくば山から見た羽鳥の地で、源護と良兼の協力を受けて塚を築きお祀りしていたが、3年後、理由は分からないのだがこちらへ移ってきた。そしてこの集落の領主として付近を開墾したり、学問所を開いたりしていたそうだ。
海音寺氏の小説では、ここに、四郎将平が学問をしに岩井から飯沼を船で渡り通っている、という設定で書いていた。

いつものように関鉄を使い三妻駅で下車する。今日は猿田彦が居ないので自力で頑張らなければならない。
なんだこの家みたいな駅は・・・、誰か住んでるのではないか?これが訪問したものを飽きさせない板東人気質である。しっかりと記録に留めて未来への財産としたい。

この日は雨予報であったので、朝はゆったりと出発した。ちょうど雨はあがっていて道を歩く分にはまったく問題なさそうだ。
鬼怒川を渡る為には美妻橋というところまでいかなくてはいけないので、駅を出てからはしばらく南へ歩く。雨が降ってもいつものように元気な麦達を眺めながら進んだ。
歩いていたのは鬼怒川の東岸で、鬼怒川決壊時に浸水の被害があったところである。浸水地図や写真を見た限りだと、台地になっている集落は浸水までには至らなかったように見える。この電柱に書いているのを見ても1・5mなので、それ以上の高さであれば一応浸からないということだ。あくまでも想定内の話だが。

美妻橋を渡り西へと進む。西側は台地になっているので電柱に浸水マークはついていなかった。ここからしばらく国道を歩く事になるのだが、これがかなり退屈だ。もう少し楽しい国道があればいいのだが。
この直線の道路がこの地域の雰囲気を現しているように思える。一番手前の付近が水田地帯で、昔は沼となっていた部分だと思う。そこから段階的に上がっていき最終的には4〜5m上がっている。

大生郷工業団地の案内板の所から集落の中へと入ってみる。国道を通るよりも楽しいし地形もよく分かる。森や家で視界が遮られ、道は曲がりくねっている。先が見えない事が楽しいという感覚の原理原則かもしれない。
うっそうと生い茂る草の中、隠れるように道や水路が通っている。打ち捨てられた無情さが道路の亀裂に表れている。
この水に浸かった所は、昔の水田があった場所であろうか。現在は、昔の沼の部分が大規模な水田地帯となっていて、この集落内の田は放棄されていったのだろう。田だったのが沼になり、沼であった所が田になり、ちょうど昔と今とが正反対になった感じだ。
今では「あぶない!」とか書かれた看板が立つようになってしまっている。さらに、ここで遊ぶなと書いているが、そんなに深いのだろうか?

琵琶湖に浮かぶ沖島の小学校では授業で遠泳をさせたりしているそうだ。今では「あぶない!」「危険だ!」と言われるような事を好んで17人もの子供が島外から通っている。危ない事をさせる人と、危ない事をさせない人がいる。まことに社会とは不思議なものである。

大生郷天満宮を目指していたのだが、ところどころで「坂野家住宅」という看板を目にする。その坂野家の正面にたまたま出くわしてしまったので入ってみることとした。
パンフレットによるとこの坂野家屋敷は、「だいじん屋敷」とも呼ばれ、この地域に土着して500年程の家だという。そしてここまで大きな屋敷を作れる豪農になったのは飯沼新田の開発の時からといわれている。
その3000町歩と言われる飯沼新田のことが豊田城資料館に置いてあった資料で解説されている。それによると、すでに1669年には飯沼干拓願いが出されている。しかし実施には至らずに、実際に干拓工事が始まったのは1725年になってからだ。飯沼落堀(現在の飯沼川)と呼ばれる30キロの水路を開鑿し、飯沼の水を抜いて干上がった1400町歩が新田となった。しかし飯沼に流入する水が多くて、1726年に堀を広げる工事、1727年には新たな排水路を作り、1728年にも新しい排水路を作っている。
資料はそこで終わっているのだが、地名辞典で見てみると、こののちにも毎年のように水害が起こって、高い年貢と低い生産性の為に農民が疲弊し新田地も荒廃していった。と書かれている。1789年〜1801年の代官が資金を投じて一時は復興したが、またすぐに荒廃してしまったそうだ。今のようになったのは戦後の改修事業が大きいようである。
これだけの苦労をして作ったのに今や減反政策がとられてしまって、ネギやレタスの方が大切に扱われている。まことに社会とは不思議なものである。

坂野家屋敷は外人が来るほどの観光名所のようで、私たちを含めて10人ほどは来ていたと思う。土間の所で受付をして家の中を探索していると、案内係の方が色々と説明をしてくれた。
広々とした土間には炊事場があり、窯場の上には燃えやすい茅葺きに火がうつらないように漆喰を塗ったしきりを置き、その窯場の煙が天井で循環し、天井付近で貯蓄している補修用のカヤをいぶし乾燥させている。
土間から板間に上がった廊下にはこの家の一番の売りである、「蔀戸」と「無双戸」が設置されている。蔀戸は上八割を内側に引っ張り天井につり上げ、下二割は取り外して、全開放ができる戸で、無双戸は板を二枚張り合わせ、一枚をずらすことで隙間なく閉まるというものだった。
廊下から見えた茅葺きが気になり、常日頃より疑問に思っていた茅葺きとは何か?について聞いてみたところ、藁葺は藁だけで作っていて目が細かい。茅葺きはカヤとかススキとか色々な草を使っているそうだ。そしてこの写真の茅葺きは「つくばぶき」と言うらしい。一番下を目の細かい藁葺にして、上4層を毛肌の違う茅葺きにしているらしい。こうしてみると違うものなんだなと初めて気が付いた。
茅葺きの説明後、説明員は持ち場に戻り、私たちは、居間や書院などをぐるっと見て回った。使用人の部屋が狭すぎる事だけが気になった。3畳くらいの広さで3人詰めてたんだったかな?通いの人も居たようなので、ほんとにただの詰め所だったのかもしれないが。
この家は平成10年まで使われていたが、今は市が買い取ったそうだ。坂野さんは近くでローズガーデンというのをやっているらしい。

坂野家を出てしばし歩き少し大きな通りに出る。この付近を歩いていて少し気になったことだが、「オレオレ詐欺に気を付けろ」だとか、「防犯カメラ設置!」などの看板をいくつか見かけた。のんびりとした集落に見えるだけに意外であった。道真公も歎いていることだろう。

そんな不穏な香りのする大きな道を歩いていると、道真公のご廟所が見えてきた。戦国時代には廟所は燃えてしまったが、それを石塚氏が復興して今に至るまで管理しているようである。
最近新調したばかりのとても綺麗な塔が建っていて、そこに「天満大自在天神」という文句が書かれていた。この文句は道真公の祟りを鎮めるためにつけた文句だと思われるが、「天」というものが大切だったのだろうなという感じが出てる気がする。しかし日本の人物で憤死したのって道真公くらいではないだろうか?感情の激しい人のようには思えないのだが・・・・。文句をとっても人物をとっても、中華風な人物なのだ。

私たちは道真公の膝元でミカンを食らい祈りを捧げる。他にも二人参詣者が居て、公の威光の大きさを感じる事が出来た。
廟所のすぐそばに大生郷天満宮が鎮座していた。やっとここまで来たのかと思うとホッとする。この天満宮の脇道の所にうどん屋?うどん小屋?のようなところがあったのだが呼んでも出てこなかった。ちょうど昼飯時なのに。板東の地で是非とも地粉うどんというものを食べてみたかっただけに、いかにもの風情のあったお店で食べられなかった事が非常に残念である。しかも写真も撮り忘れてしまった・・・。

三郎天神の場所を聞こうと思いおみくじ販売所で声を掛けたが出てこなかった。あれ?うどん屋も神主も昼飯食べに行ってるの?
ただ案内パンフレットが置いてあり、そこに三郎天神の地図が書いてあったのでありがたく拝見させてもらった。
境内をぐるりと見物し、もう一度おみくじ屋で声を掛けるもやはり居ない。長い昼飯だが、昼飯はとても大切だ。人が食べてるだろうと思うと自然と腹が減ってくる。早く食堂を見つけなければ。
大生郷天満宮からの眺め。当時は飯沼湖畔に浮かぶ島だったらしい。この立地条件を考えると、沼を生業にしている支援者たちがここへ呼んだものなのかもしれない。
勝手な想像をしてみるが、鬼怒川より西は総の国と言い麻の栽培の適地だったらしい。どういう所で栽培されているかも、麻という植物も見た事がないが、ひょっとするとこういう沼のような所が栽培しやすかったのではないだろうか?想像以上に古代から流通ルートは確保されており、交易の活発さによって、産業の分散がなされていたような気もする。

20分程歩いて三郎天神へと到着した。こちらが景行公の遺徳を偲んで作られた神社で、おそらくはこの界隈に学問所などもあったのだろう。
ただ、景行公の事蹟に関してはさっぱりと分かっていないようで、説明板なども無くただ名前だけが後世に伝わっている。 鳥居があって一筋の道を奥に行くと建物に囲われた本殿があった。ここも伊勢参りが盛んだったらしく、今でも伊勢参りのお札やポスターがたくさん貼ってあった。
ここで四郎将平が学問に励んだことを想像する。数時間かけてここまで通い、ようやく欲していた、師であったり、書物であったりと、出会う事ができるのだ。必死に学ぶ姿が目の前に浮かぶようであるが、儚い人生の中でどれほどのものが掴めたのだろうか。
「将門記」における将平の出番はただの一節のみである。将門が新皇を称したことに対する諫言だが、一喝されて退けられてしまっている。将平が言った、帝業は天から授かるものだという考えは、いかにも中国風で、学問を修めたのであろうと思われる人物として書かれている。
海音寺氏の平将門では、将平が将門記を著述したかのような流れで書いてある。男はロマンが好きなのでそうあって欲しいと思うのだが・・・、残念なことに、現在のこの地方ではオレオレ詐欺が横行している。日本人はもう一度将平の気持ちを持つべきであろう。そうでなければ哀しすぎるではあるまいか。

将平に別れを告げ坂野家の説明員に聞いたラーメン屋へと向かう。腹が減っていたのでトボトボ歩きだったがなんとかラーメン屋を見つけて入店。ラーメンとスタップ丼というのを頼みお腹一杯になれた。最近のラーメン屋は味が濃すぎてきつい。もう少し色んなラーメン屋が欲しい。

ラーメン屋の近所にあった安楽寺というお寺にやってきた。景行公が道真公をお守りする為に作ったお寺のようだが、廟所から距離がありすぎるような気がする・・・、こんなもんなのかな?
境内はすごく広々としていて、お墓があったり、古墳の石棺があったり、木を祀っていたりしていた。貸し切り状態の境内を気兼ねなく散策させていただいた。
幕府高家衆の京極家のお墓があったり、新田四天王十六騎の一人篠塚伊賀守の墓があったりと、初めて聞いたような人物の墓があった。いずれ何かを読んだ時に出てくる方々なのかもしれない。
古代石棺の岩の感じは岩井で見た古墳と似ている。雲母かどうか判別はつかないが片岩系の岩で、とてもシンプルな作りだ。詳しくは分からないが、石棺だけ取り出し保存して、古墳自体は破壊されているのだろう。

安楽寺から国道へ至る道は杉並木の長い一筋の道であった。杉が綺麗に並んで植えられていて気持のいい道であった。板東界隈の神社はこのように平地に一筋の道を通し、両脇に植林をしている所が多く見られた。
国道を南に進み豆腐直売の豆腐を買うかどうか悩み、買わないと決め、気持ちの整理がついた頃に弘経寺へとたどり着いた。ここは千姫と言う徳川将軍の娘になにかゆかりがある寺だったと記憶している。詳しい事は忘れてしまったが、お堂の1つがやたらと傾いて危険な状態になっていたのがとても気になった。驚きすぎて写真を撮るのも忘れてしまった。
個人的に気になったのがこちらの神社。弘経寺の隣にあった八幡宮の脇に建てられていた。ちょっと露骨すぎるけども何を期待しているかが分かりやすいのはとてもいいかも。これをお詣りする人は、男と女どっちが多いのだろう?

飯沼跡を見る予定がすっかり忘れてしまい、知らず知らず北水海道駅へと来てしまっていた。もう仕方ないので猫と一緒に電車を待つことにした。


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