2018年5月 2日目:将門終焉の地へ


板東の地にいるという緊張感のせいか、朝五時に起きてしまった二日目の朝。精肉屋で買った弁当を食べて動く準備は万端だ。
7時過ぎのバスに乗り菅生沼へと向かう。板東と沼は切っても切り離せないものだからここは是非見ておかなければいけないと思うのだ。

のんびりと貸し切り状態のバスを楽しんでいたが、途中でブラジル人と思われる男性、中国人と思われる集団が乗ってきて一気ににぎやかになってしまった。中国人の集団はおめかしをして東京方面へおでかけのようだ。多国籍・・・・これぞ板東!!

板東平野というところは、常にぬかるみ、島のような丘のようなところが森となっていて、その森から板東人が顔をのぞかせ警戒している・・・、これが私のイメージだ。
しかし、残念な事に今はもうそのような所は無く、ただ坂の起伏に面影の一つを残すのみとなっていた。

菅生沼の南側は全面が田んぼになっている。乗用車も通れる道がついていて生活に密着している感じはある。ここが満々と水で浸っている姿を想像すれば当時の再現になるのかもしれない。 「雨引観音」というお堂が珍しい。雨乞いというのはよく目にするが、雨引きは初めてみた。水が引いてくれる事を祈るくらいこの辺りが水浸しであった事の証明であろう。

茨城県自然博物館は開館が9時半からなので、開くまでの間、沼の周りを散策する。
この近辺は、台地状のところに博物館や集落が集まっている。沼との境界に行って見ると高さが2m程下がっていた。そこを下っていくと竹林があり、さらに進むと下の写真のような葦原と言えるような場所に出た。ここの地名は大谷口と言い、沼が丘陵に入り込んだ所である。関東に於いては「谷」はヤト、またはヤツと読み、この場所のような所の地名に使われているそうだ。(地名辞典を参照) 足元がかなりぬかるんでおり、さらに葦の先には何が潜んでいるのかがまったく分からない。今にも向こうの草むらから板東人が顔を出してきて襲ってきそうな感すらある。

沼を進むのは諦めて台地の集落の中を歩いていく。
初春を過ぎ、大地のほうぼうから濃い青の若い草たちが天に向かって伸びていく。そして、淡い空色でしめられた世界を塗りつぶしていき、我が物顔に飛び回り、新しい季節を迎えようとしていた。
その中の見え隠れする家の間を縫うように歩き、散歩している方々に道を教えてもらいながら菅生沼の北の橋へと到着した。 岩井市史によると、この土地では主に米・麦を生産していたが、減反政策により、今はレタス・ネギ・タバコなどがとってかわっているようである。5月現在は時期的なものなのかネギと麦が大量に生い茂っていた。

50キロクラスの猪が出るから気を付けろと言われた土手を越え、名もなき橋を渡る。
橋から南側を見てみると水などはあまり見えず草が生い茂っている。ここをすべて田にすれば最初の写真と同じようになるだろうか。この草原のような葦原の端には飯沼川と江川が走っている。昔は排水が難しく利根川から水が逆流していたそうだが、現在ではそのような事はないようである。
橋から北側は水がたたずんでいた。揺れ動く事の無いその水は、鳥の声や風に揺れる樹々のざわめきにも関心を持たず、それらに溶け込む釣り人のように、ただ、シン、と静まり返った沼地なのである。
その沼の左脇に佇む船もまた釣り人と同じように、ただ、ジッと、その主人が帰ってくるのを待っているのであろう。

対岸に渡り南へと進み板東市から常総市へと入り、一言主神社へとお詣りをする。
こちらの神社は桓武天皇(在位781〜806)の子息、平城天皇(在位806〜809)の時代に、三つに枝分かれした竹が生えてきて、「私は大和国葛城山の東高宮の岡にいる一言主大神である。」と託宣があり、村人達が祭る事になったそうだ。
雄略天皇(在位五世紀後半)の時代に一言主大神が土佐に流されたという話しは聞いた事があるのだが、まさか下総にも来ていたとは知らなかった。ただ、こちらの神社も葛城(奈良県御所市)の一言主神社も別段相手の事を書いていないので親交は無さそうに思える。
ちなみに平将門は桓武平氏で「桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王ー平良将(良持?)ー平将門」という系譜で元皇族であったのだ。そして桓武平氏は坂東の地においてもっとも栄えた一族であったのである。

一言主神社から南西に歩いていくと、あすなろの郷という公園?があり、そこから行く道は沼を渡り茨城県自然博物館へとつながっている。
東岸の常総市から西岸の坂東市へ橋がかかっていて、その橋も最近新調して綺麗になっていた。この沼はさすがに水が広範囲に広がり、葦の浄化作用のせいなのか、その水が意外と綺麗なのが少々驚きだった。
しかし、せっかく菅生沼に着たのだからぬかるみを歩いたり、船に乗ったりして渡ってみたかった。
上写真が博物館の屋上から撮ったもの。下写真は昭和51年発行の歴史読本に載っていたもの。
現在は緑が多くて綺麗に見えるのだが、昔は人が沼に密着している分、邪魔な茂みは生えておらず、船で浮かんでいるその姿が綺麗以上の風情というものを感じさせてくれる。

期待した茨城県自然博物館には菅生沼の展示が全然なくて、興味を引くものが無かったのですぐに退散となった。家族連れがたくさん来ていたので家族みんなで楽しめるようなものを心掛けていたのかもしれないが、菅生沼を散策している人も少なかったので本来の目的に立ち返ってもらいたい気がする。

ちょっと残念だった菅生沼とお別れをし、名もなき橋の辺りまで戻って、たまたま見つけたラーメン食堂で昼食をとった。ラーメン屋はあまり好みではないのだが食べるところが無かったので致し方ない。
川沿いの低地には水田が並び、台地状の土地は見渡せる限りの麦畑だった。そんな麦達を観察しながら歩いていたのだが形状が少し違う事に気が付いた。おそらく大麦と小麦なのだが、こんなに違うとは思っても見なかった。左が大麦で元気よく右や左へ穂先を伸ばしている。この快活さはまるで貞盛のようだ。右が小麦で行儀よくしっかりと真っすぐ空に向かって伸びている。この真っすぐさは将門だと思う。

しばらく麦畑の道を歩いて延命院に到着。こちらには将門の胴塚と言われる場所があり、この付近の地名を神田山と言う。この付近では山は原であり、谷は入江なのだ。
門をくぐり、少し奥に入ったところに「埋蔵文化財将門山古墳」と石碑が建っていた。割れたカヤの大木の中から光が差し込んでいるのが神々しくて目もくらまんばかりだ。この光を浴びると埋蔵文化財や天然記念物などという名称は非常に違和感を感じる。即刻撤去していただきたい。(激オコ)
こちらのお寺の説明板は昭和57年に建てられ、詳しい事は書いていないのだが胴体がここに埋められていると書かれている。
しかし、私が持っている「平将門伝説ハンドブック・村上春樹著」によると、「ここを胴塚としたのは、かなり新しい説のようである。この神田山の地には、古くから、将門の首塚があったという別説がある。」ということが書かれていた。
こういう伝説が関東のあちこちに残っており、それらをまとめた本を将門研究家の村上春樹氏が出版していて、私たちの今回の観光の参考本として活躍している。その本によるとこの付近には「后山」や「太平山」などもあったそうだが、今は土取りの為、その形はもう残っていないのだそうだ。実際見回してみてもどこが山なのかは分からなかった。

延命院からさらに北へ進み八坂神社にお参りをし、馬洗橋(将門が馬を洗ったというよく分からない伝説があるらしい)を渡って岩井の市街地方面へと戻る。村上春樹氏の本は字単位で紹介されているだけなので、この界隈の地名である辺田だけで、将門終焉の地と言われる北山稲荷神社を探さなければいけないのだ。
ぱっと見て看板とかそれらしい森があるかと思っていたが無さそうだったので、庭掃除をしていた御婦人に尋ねてみた。するとやはり知っていて「国道を北に向かって、左手の小学校の所を右に入ればそこが北山稲荷ですよ。昔は綺麗な社を建てていたけど、今は電気屋が出来たり住宅地になったりして分かりにくくなってるかも。」と、丁寧に教えてくれた。

教えていただいた通りに国道を北へ進み、小学校の向かいにあったコンビニで休憩する。
すると顕彰会という人たちに勧誘を受けたのだが、この付近の人だと言うので逆に北山や将門の事について質問をしてみた。あまり詳しくないようでこの界隈の人では無かったのかもしれない。さらにコンビニでも聞いてみたがそこでも知らないと言われた・・・・。実はそのコンビニの裏が神社であるにもかかわらずだ!!(激オコ)

仕方がないのでブラブラと探していたがなかなか見つからない。たまたま見かけた散歩中の御婦人に聞いてみると、「将門の所やね?それならこっちやからついておいで。」と、北山稲荷社の社叢の前まで案内してくれた(コンビニの裏手)。
そして謎の一言を放つ。「ここを真っすぐに行けば稲荷神社に着いて、その奥にさらに行けば田んぼになってて、崖のようになっているで。」この時はなぜ田んぼの事などを話すのか意味が分からなかったが後に分かる事となる。
ようやく見つかった安堵が疲れを増幅させたが、その疲れを忘れさせるような妖気を湛えた社叢がそこにはあった。そして私たちはその聖域へと足を踏み入れたのだった。

辺田と岩井をつなぐ南北に走る国道の東側に電気屋・コンビニ・寿司屋などが並んでいて、さらに東が新しい住宅街となっている。その住宅街の向こうが菅生沼へと続く江川と西仁連川、そして水田として利用されている土地だ。
その国道沿いに並ぶ商店と住宅街の間の森が北山稲荷社であった。そこは周りの明るさとは趣を異にし、雑木が生い茂り、密かなる妖気を放っているかのようだ。その妖気の元へただ一本の小径が続いているのだ。まさに現世の闇の中に隠れているかのような存在である。よくぞ残ってくれたという言い方こそがふさわしいか?いや、ここは何人たりとも侵すことができぬ領域なのだ!!(激オコ)
上写真は私がイメージしていた板東というものにぴったりと一致する。茂みの中から覗いてこちらを警戒しているのである。しかし、この社も昔は下写真のように暴悪なる行為にさらされ、人々から好奇の目で見られるような場所にされてしまっていたのだ。本来ならばここは歴史公園などというわけのわからない所にされる予定だったらしいのだが、おそらくは地元の有志達の手により守られたのだろう。

恐る恐るではあるが歩を進め、まだ新しい鳥居をくぐり倒れた灯篭を傍目に見ながら、将門を祀る社の前へと到着した。何故かは分からぬが額からは汗がにじみ出ている(暑いからに決まっている)。社と石碑が二つ置かれ、この周辺は綺麗にされていた。社は稲荷神社となっているのだが、稲荷らしさはまったく感じられなかった。
この社の正面には自分の存在を最大限にアピールするかのように「えび原」と書かれた御札が貼られている。その海老原氏かどうかは分からないが、「岩井郷土史」というものを海老原藤吉氏が出しているようだ。そういえば神田山周辺で海老原氏の苗字をいくつか見た覚えがある。さらには将門の郎党にも海老原氏がいたようである。その方がここを管理しているのであろうか?
こちらの石碑には高級そうなお酒が置いてあった。ひょっとするとこれも海老原氏が置いていったものかと思っていたのだが、この石碑の裏に文言がこう書いてあった。

「長元三年(1030)九月甲斐守源頼信公は、両総を地盤として起した平忠常の反乱鎮定のため、時の関白頼通の命を受け総土に遠征されたが 同四年忠常は戦はずして降伏しここに長元の乱は平定した。
依って頼信公は北山合戦に武運拙く戦死された将門公の菩提を弔うため、辺田北山のこの地に将門禅門鎮魂の板碑を立て、供養された。
その板碑が昭和五十年八月二十九日奇しくも吾が家の手により発見されたが、これまさに将門公の霊の然らしむる処か、よって其の縁故に因み、かねてより将門公終焉の地、辺田北山説の提唱者石山寛信氏と計り、茲に、平将門公鎮魂の碑を建立するものである。
昭和五十年十一月 中山全壽誌」

つまり、ここは石山氏と中山氏が管理している土地なのだ。
こちらの石山氏は「岩井郷土大観」と言う本を出していて、「岩井郷土史」と同じように、村上春樹氏も参考資料として本に載せてあった。
これを見てこの3本の酒は「海老原氏、石山氏、中山氏」がお供えしたものであろうと思うわけだ。
ここで一句「せんねんの のちのよとなりちはかはり かはらぬものは ひとのこころとさけのあじ」(激オコ)

ここで将門の鎮魂の板碑を建てた「源頼信」という人物は、興世王と仲違いした源経基の孫であり河内源氏の祖である。さらに頼信の孫に八幡太郎義家が出て清和源氏が武門の棟梁となるのである。その子孫が源頼朝で、執権である北条氏は坂東平氏の一派だ。因縁につぐ因縁となっている。

北山稲荷を教えてくれた御婦人が言っていた「奥に行け!」という託宣通りにさらに奥に行こうとしたのだが、草が生い茂っているし、腹が減って疲れてしまっている事もあり途中で断念してしまった。我ながらなんと情けないことか・・・・。
その代わりに国道沿いを歩きながら、ずっと北山稲荷の森を見ていたのだが、将門ハンドブックに書いてある事を見てようやく合点がいった。
なんと北山と藤田の間のくぼ地では、平将門と田原ノ藤太が戦ったところらしいのだ。この国道をさらに北に行った所が藤田という地名であるので、御婦人が言っていたのは「激闘の地を見てこいよ!」ということだったのだ。
この写真が北山稲荷の森の終着点である。ちょうど2〜3m下がっていてくぼ地になっていることがよく分かる。1030年の板碑が出た事からもここが終焉の地というのはかなり信憑性があるのではないだろうか。
先程の詳しい御婦人に将門の事をもっと聞いておくべきだった。それならばこの界隈の伝説を吟味できた気がする。(自分に激オコ)

この日は日差しが強くかなり疲れてしまい、この辺りで気力を失ってしまった。まさに終焉の地ではないだろうか。元気なくトボトボと歩く私たちの横を、インド人と思われる人が自転車で通り過ぎる。エアー電話をしているらしく一人でひたすらにしゃべっていた・・・・。


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