平戸に出発する前の最後の
諫早でお土産をまとめ買い・発送してもらいました。
諫早を訪れるのは今回が初めてでしたが、観光地化されていない普通の町でそれがかえって気に入りました。
父が諫早出身なのでひいき目もあるかもしれません(笑)
あまり顔も覚えていない父ですが、
若いころ諫早の田んぼで耕していたら
長崎のきのこ雲が見えたらしい、という話だけは
何度も母から聞いていたので、
私も西の長崎のある方向を眺めてみました。最初で最後になるだろうな、と思いながら。 ============================ ところで、長崎県の北部に位置する島、平戸に行くには飛行機であれ新幹線であれ、 ほとんどが佐世保経由のアクセスになるので行きにくい場所に感じます。 平戸島との間にまだ大橋が架けられていなかった頃は、もっと遠い場所だったのでしょう。 ![]() 諫早から大村経由の特急で佐世保に向かいました。さらに佐世保からバスで1時間30分かけて平戸を目指します。 佐世保といえばドルが使えて米国ナンバー車も走る米軍基地の町です。佐世保に寄り道してみたい衝動に駆られますが、今回は何よりも平戸島を楽しみにしていたので佐世保バーガーを味わうにとどめておきます。 ![]() しかし出てきたバーガーセット(セットではないけど(笑))を見て、なぜ飲み物にこだわったのか分かりました。カップがね、立派なんですよ。ここは長崎だから波佐見焼なのかな?有田焼?カップを店主は使いたかったんですね。 バーガーは肉がジューシーでとてもおいしかったです。 ![]() 大橋がかけられて交通の便が良くなった影響も大きいのでしょうが、平戸はかなり観光客を意識した町づくりになっていました。新しい古民家風の建物、レンガを敷き詰めた道路、ランプのような街灯が、奥深い入り江の、港沿いに並んでいました。 こちら(上写真)は裏路地(?)で車通りが多く、もう少し奥へ進むとスーパーやちょっとした商店もあったりして、日常の匂いのする道路です。表向きに作られた観光地と比べて活気がありましたね。 ※佐世保の北から平戸までのあたり一帯に「〜〜免」という地名がかなり多くありました。ネットで調べてみたのですが、理由はいまだに不明です。 ![]() ![]() ここは、松浦党をやがては統括していく「松浦氏」が築いた平戸城への入口です。ここまで来る道も坂が続きます。 本家は佐世保松浦氏だったのですが、傍流だった平戸松浦氏が南蛮貿易の利益で力を蓄えたことにより、とうとう本家を滅ぼすにいたります。しかしながら、南蛮船とともに入ってきたキリスト教をうまく利用できなかったこと、そして幕府による外国商人の長崎市・出島への移転命令により、外国船の姿が平戸から消えていきます。それとともに平戸松浦氏の勢力も衰えていき、細々と江戸時代を通じて生き永らえてきました。 さきほどの「〇〇免」という地名が松浦氏の勢力範囲とかぶることから、松浦党(松浦氏)特有の呼び名だったのではないか、と想像しております。 ![]() ここでは、「原城攻囲陣営図」と「徳川家康からの手紙」(上写真)が興味深かったです。 徳川家康が差出人になっているこの手紙には、宛先として平戸藩主の「豊臣隆信」と名前が見えますが、もちろん平戸藩主は豊臣家とはまったく血縁関係にありません。「松浦隆信」という名前なのですが、なぜここでは「豊臣」と付いているのか。 これは徳川家康の「イヤミ」(?)なんだそうです。 平戸松浦氏は貿易で得た利益を献上したり朝鮮半島出征に協力するなど豊臣家と交わりが深かったのですが、関ケ原の戦いで東軍に組したことで難を免れました。しかしながら豊臣家と蜜月だった過去は消し去ることができません。 さてこの手紙を受け取った松浦隆信氏、何をしたかというと、自ら建築中だった城に火を放ち、焼失するにいたるのです。あざといですよね。 ![]() (写真・右)こちらは、オランダ商館。日本と鎖国中も貿易し続けたヨーロッパで唯一の国です。長崎市の出島に移動させられるまでは、平戸のオランダ商館を拠点に貿易が行われていました。商館は復元ですが、人が行き交う道路から商館の中が見えないように建てた高い塀は当時のものなのだそうです。今もそうですが、外国人が近所に住んでたら好奇の目を向けてしまうのは仕方のない話しですね(笑)遠くに見えるのが、夕日に映える平戸城の天守閣です。 ※一説には、スペインから独立を果たしたばかりのオランダは異国の日本でも、スペインを警戒して高い塀を築いたと言われる…そうだ。 |