2013年8月 3日目:島原市・南島原市


1日で島原市と南島原市を回るという強行計画の日で、朝早めに諫早駅から島原駅まで島鉄で向かいます。諫早駅はJRと島鉄が1つの改札口になっているくせにJRルール重視というか、島鉄がJR駅を間借りしているような感じの構造(?)で初めて使う人は戸惑います。

島原市に行く途中の車窓に広がるのは、前日に見に行った有明海で今日は島原半島側から見ています。「ギロチン」を過ぎた後の風景しか見えませんでした。ギロチン開門することによって人口池の生活排水まみれの汚水を有明海へ一気に流し込むことは生態系を壊すことになりかねない、という開門反対意見もあるので、その人口池が近くで見れるかもしれないとドキドキしながら窓の外を凝視していたのですが、万が一見えたとしても汚物は沈殿していき表面上ではなんらかの露骨な「汚いもの」は残していないかもしれませんね。

いかにもガイドブックに載りそうな写真になってしまいました。この島原城は、日野江城を拠点とした有馬氏が失脚したあと奈良より移封した松倉氏によって建てられたもので、これが島原の乱の原因の1つに数えられています。言われてみれば、こぢんまりとした島原市の街並みには少々不釣り合いな立派な石垣にも見えます。

「島原城築城主 松倉重政公御祭祀の祠」
司馬遼太郎は小説「街道をゆく」で、「日本史のなかで、松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない。」と言っているほど悪者として有名です(笑)司馬遼太郎はまた島原城の作りの1つ1つにどういう機能を持たせていたのかを説明しつつ、城の構造から見る松倉重政の性格は「臆病で気が小さい人だったのではないか」と結論づけています。ところが、奈良県五條市(島原転封前の領地:二見城主)では名君として称えられ、今なお松倉氏を祀る神社もあります。この矛盾した顔を持つ松倉重政氏だからこそ、司馬遼太郎は「がんまつ(ガツガツした人といった意味合いの大和言葉)で日和見」という大和の県民性を紹介し「忌むべき存在」としたのだと思う。ただただ、愚鈍なまでに悪役に徹していたほうがまだ可愛げがあったのかもしれませんね。

島原城の天守閣内にキリシタン史料館として島原の乱にまつわる数多くの史料が展示していますが、島原市ならではの史料でぜひ見て置きたいのが「眉山崩壊前と、崩壊後の古地図」です。海に面した島原市の背後には、雲仙系山脈が連なり活火山として甚大な被害をもたらした普賢岳、平成新山なども見ることができます。中でも1800年の普賢岳噴火によって誘引された眉山の崩壊で変えられた島原市地形は「島原大変肥後迷惑」として有名で地図を見比べてもその甚大が想像できます。上の地図では内海で島々が浮かんでいたのに、眉山の土砂・岩石が雪崩れ込んだことで平地が広くなってしまっています。ちなみに、眉山の隣にできた大きな湖が「白土湖」です。

島原市は、湧き水の町です。
山さけてくだけ飛び散り島若葉
と虚子が詠んだ眉山が白土湖の向こうにぼんやりと見えます。虚子が「飛び散り島若葉」と言った表現は決して大げさなものではないということは、先ほどの古地図でも理解できるはずです。火山で山が崩れ、島ができ、湖ができ、町中に水が湧きだしたわけです。この白土湖はなんと一日2トンも水が湧くのだそうです。また街を歩いているとところどころに湧き水を目にすることができます。島原市探訪の折には、真夏に湧き水を探しながらの散策が気持ちよさそう。

島原駅からバスで南島原市へ向かいます。ちょうどお昼だったので、南島原市須川で「須川そーめん」に入りました。そして注文したのが「地獄そうめん」(笑)松倉城主が行なったキリシタン弾圧で有名なものの1つが雲仙の「地獄責め」なんですよね。苦笑いしつつ、まあネタになるかな?と思い注文しちゃいました。近くに原城もありますし、この一帯は「素麺」が有名なのですが「南島原そうめん」とは呼ばないんですね。一般的に流通している商品には「島原そうめん」と名付くことが多いです。さて、この原城と島原素麺もやはりキリシタンと関係が深いです。

「島原の乱」の最後の舞台となった原城。かつては有馬氏の居する日野江城の支城でしたが、松倉氏が入封すると日野江城とともに廃城となりました。一揆軍はこの廃城に真冬の3か月間籠っていたのだそうです。平成に入ってからようやく発掘調査が始まったので、この地図もいつかは書き換えられることもありそうです。

有明海に突き出した丘に築かれた原城。海の向こうには、ぼんやりと天草島も見えます。松倉重政はこの時はすでに他界していましたが、息子の松倉勝家もまた父親に劣らず過酷な税取り立てや拷問、キリシタン弾圧を行なっていました。
島原の乱は、過酷なキリスト弾圧によるものと習った記憶がありますが、島原・天草両城主のいくら搾り取っても足りないといわんばかりの圧政が誘因となった「百姓一揆」、佐々・小西・加藤の改易で大量発生していた浪人による「浪人一揆」さまざまな要素が絡みあって起きたと最近は言われています。
それぞれの要素を持つ一揆が「宗教一揆」と呼応することによって、キリストという名前のもとに結束を強め、やや秘密結社めいたものになり宗教色を強めていった、と。

あくまでも「宗教一揆」として片づけたがっていた幕府は、島原の乱後、原城の石垣を壊したり埋めたりしています。島原の乱のせいにすることで鎖国政策を推し進めようとしたかったのでしょうが、明治時代になると今度は島原の乱のことを「農民一揆」と表現が変わり、そして現在われわれが見る教科書では「宗教一揆」と記述されている。七転八倒するこの表現は、いまだに輪郭が明確でなく歴史上の位置づけも定まらないというふうに解釈することもできる。
島原半島の南部の村民はこの乱で絶滅しました。錯乱する死体を片づける人も弔う人もいなく、新たに田畑を耕す姿も見えないまま10年くらい放置されていた荒廃の半島でしたが、無税を条件に西国諸藩から人々をこの地に移住させるという政策を採った効果で、島原の乱の記憶をまったく残さなくなりました。それでもかろうじて原型をとどめている原城をことさら壊すこともせず田畑を耕しているのは、3万7千人の霊の祟りを恐れたのでしょうか? 本丸には、供養塔が立ち並んでいて そのひとつに「鬼理支丹」(1648年建)と書かれていました。

ここは空堀ですが、非戦闘員(女・老人・子供)が隠れていた場所で意外に深い堀になっています。


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