2017年5月 鹿児島7日目:高熊山から水俣へ


朝7時に朝食、昨日と同じくお腹一杯になるくらい御飯を頂きました。なにしろ、本日も歩き回る予定なのですから。それから本日で大口を発ちますので宿泊代を精算し、高熊山に向けて出発します。
国道沿いの病院の前に、「海音寺誕生の地」の石碑がありました。石碑の隣には小説『二本の銀杏』の一部分が石碑に彫っており、大口を舞台にした時代小説でやはりこの大口のことを「山また山にかこまれた小さな盆地だ」と書いてあります。 石碑が建っているこの辺りを海音寺氏は子供のころよく遊んでいたらしい。その頃は辻に木の棒を立てていたのを、通りすがら木刀や竹刀で叩いて行ったそうです。武家制度が根強かった薩摩藩のことなので、日常の生活のなかに武術など鍛錬の要素を組み込んでいてもおかしくはない話です。
もっとも今は人気のない国道と化していたが、病院にだけは人が集まり、朝早くから混んでいるんですよね。 高熊山麓の八幡神社です。こちらにも不思議な容貌の仁王様が建ってらっしゃいます。さてこの八幡神社は、昭和29年に社殿を補修した時に大工が落書きしたものが発見されたことで有名になっています。

永禄2年(1559)8月11日 作 次 郎
              ○田助太郎
その時座主は大きなこすてをちやりて一度も
焼酎を下されず候 何ともめいわくな事哉

※ ○には漢字変換不可能の1文字が入ります
施主がケチで焼酎もふるまってくれないと柱に愚痴を書きその上から板を被せて隠していたもので、この時にはすでに焼酎があったという点で注目されているのだそうです。しかし、どうも胡散臭い、そもそも大工が字を書けるのか?と博物館の人に突っ込んで聞いた時は、こう答えていました。
「ええとこに気づいたな、こいつ武士やねん。見てみい苗字あるやろ?」と。
我々は、得意げな笑みを崩すことはできませんでした。
何か行事でもあるのでしょうか、氏子とおぼしき方々が社殿でせわしなく動き回っていたのを、高熊山への道のりを軽く尋ねて次へと進みましたが、せっかく人がいたのでもう少し仁王像のことや何の行事があるのかとか聞けば良かったかな、と思ったのでした。 標高400mと少し、それほど高くもない高熊山は、西南戦争において二番目に激しい戦が繰り広げられた地で、海音寺氏も幼少の頃は、戦争を生き残った大口の村の古老たちがまるで昨日の出来事であるかのように西南戦争を物語るのを常々聞いていたらしい。それが大作「西郷隆盛」の執筆に繋がっていったことは有名なお話です。
林道を使って高熊山を上がって行き薄暗い森林の中に涼気を感じ始めた頃、斜面に大きな岩石がボコボコ置いてあったので、道をそれて、森に入って見るとそこには無数の穴があいた岩々が兵士の亡霊のように佇んでいました。
西南戦争の名残で激戦地だったことを如実に表しています。薬きょうが拾えるかもしれないと相棒が眼を輝かせて地べたに這いつき始めたので、やれやれと思いつつも一緒に這い回りましたよ。
しかし岩石の迫力ばかりが迫ってきて、薬きょうなんてものは一個も見つからず仕舞い、時間もないので諦めざるを得ませんでした。くやしそうな相棒。なだめながら頂上に向かってさらに上がって行きます。 ちょっとした平坦地になっている頂上は、塹壕跡や弾痕が残る岩石、電波塔、様々な石碑に地蔵が所狭しと建立していました。海音寺氏が作詞した牛尾小学校の校歌も碑に彫られていて、これを読んだ相棒、無表情で「ここで海音寺への想いを断ち切るわ」。黄金が湧く山々、日本の富とかいうのがナショナリズムで成金っぽくて幻滅したようです。 薩摩軍は、この大口戦線を守るために高熊山・坊主石山・鳥神岡(大口富士)に篭って防衛線を敷いたのですが、政府軍の大量銃弾作戦は岩を見れば判るように到底防ぎようがなかったのでしょう。アメリカ軍の絨毯爆撃を見るようです。高熊山の防衛線を担当していたのは雷撃隊の猛将辺見と言い、ずっと西郷とともに戦ってきた30歳にもならない青年でした。撤退するとき振り向くと高熊山より立ち上る硝煙が見え、よりかかって嗚咽した言い伝えが残る松も近くに残っています。
下の写真は塹壕跡です。もともとは人が隠れるくらいの深い堀に、岩石を盾にしての銃撃戦を繰り広げたのでしょう。 ここであく巻きを広げ、きな粉をつけて食べながら物思いに耽ってみます。やはり少々苦味がかかっていて、食べにくい。ちなみに、あく巻きは西郷軍も携帯していた食料だと言われています。この苦味は、辺見も涙ながらに味わったのだろうと思い、我々も涙ながらに松(架空)に寄りかかりながらあく巻きの苦味を噛み締めるのでした。 高熊山より大口盆地を望む。薩摩にしては珍しい広い盆地だということが判ります。高熊山での激戦にはこの盆地で半農半士を営んでいた多くの人々も参加していました。 頂上でも薬莢は見つからなかったので、キリのいい所で高熊山の北に立つ牛尾金山へ向かいます。盆地が見える南側から登ってきて、北へ向かって一直線に下りて行こうという計画な訳です。道は無かったので無理やり踏みつけるようにして降りて行くも、なぜか登ってきた道に合流してしまい方向感覚がおかしくなってしまったので、そのまま山裾を廻るように結局南側へ進んで行きます。弾痕が全く刻まれていないエリアもあったりして、つぶさに見ていけば当時の軍の動きが想像できそうです。
弾痕の無いエリアが高熊山の北西面、隣の山と連結部分で官軍は攻めにくかったはずだと思います。そして、激しい弾痕の残っていたエリアが南面です。つまり官軍は大口盆地から攻め入った可能性が高く、看板にあった「伊佐市内に残る西南の役の痕跡」の矢印は単なる記号にすぎないことも理解できるわけです。
この辺りの辺見や池辺の動きが分かれば、辺見の涙の意味も変わってきて面白いと思います。
※想像になりますが、池辺は熊本隊を組織し辺見の下で戦っており、高熊山を死守していたと思われます。それに対して辺見は大口市街地を守っていたようで、その辺見が退却をして涙松の所で振り返ってみると、高熊山から硝煙があがっているわけです。これはつまり、辺見が大口を退いたことにより高熊山が落ちたということがいえるのかもしれず、(実際弾痕が南面に多くついていたので)猛将辺見としては情けなくて泣いたという解釈もできるのではないかと思うのです。

海音寺が作詞した牛尾小学校前を通り、そろそろかと思うもののなかなか着かなく、このまま進んで行くようでは16時大口発のバスに乗り遅れる可能性が高まってきました。曽木の滝、忠元公園、大口城跡、海音寺の生家など今回は諦めなければならなかった事が多すぎて残念無念です。
弾痕の全く無い岩石。高熊山の北西面エリアにて。 ふれあいセンター1階の喫茶店で遅い昼御飯、唐揚げ弁当と水出し珈琲を頂きました。どっちもおいしかったです。
バスの時間になるまで2階の図書館で菱刈町史や大口市史などの興味がありそうな項目だけをパラパラとめくってみます。湯之尾温泉の陥没については「様々な地理条件が重なり陥没」としか書かれておらず、鉱山が一番の原因ちゃうの…とは思ったのですが、書きたくないんですかね。
なお、4階の博物館にもじっくり見学しに行ったのですが、例の男性がいないとつまらなかったのでした。 そして、大口とお別れの時間がやって参りました。次の旅先は「熊本県水俣市」です。水俣まではバスで1時間半と遠いので、我々はひたすらお菓子を食べてひたすら眠っていました。
そんなこんなで17時半に、水俣駅前へ到着。 水俣駅のど真ん前に、JNC(元・チッソ)の正門が構えていました。工場の周りも水路が囲んでいるのでまるでお城のようにも見えます。この水俣市を旅行最終日に選んだのは、関西に帰る時のついでという事もありますが、一番の理由は「水俣」というものに興味を抱き続けていたからなのです。小学校の教科書で習いませんでしたか、四大公害病の1つ「水俣病」。しかしそれ以上のことは何も知りませんでした。知るきっかけが欲しかったのかもしれません。 水路に沿って海に向かってどんどん歩いて行き、「丸島漁港」に着きました。小さな港で、綺麗な海が静かにたゆたって、魚も泳いでいて、釣りを楽しんでいる人もいて。公害をきっかけに水俣市は生まれ変わり、海がこんなに綺麗になったのだ。環境モデル都市宣言をし、全国優秀都市と連続表彰されているそうです。
でも忘れてはいけない、その代わりどこかが「影の部分」を引き受けているっていうことを。それがかつての水俣市だったのでしょう。

水俣駅近くのホテルへ歩いて行くと、「水光社」というスーパーを見かけました。水平社とかそういった類の、不思議な響きのある店名だったので調べたところ、元はチッソの生協だったらしいです。何かめぼしいものを買って行こうかとなって、入りましたが、魚売りコーナーが「長島産」「阿久根産」と水俣湾とほぼ隣接しているような湾名しか見かけなかったので、意識の上ではまだ忌諱されているのかもしれません。「水俣」とは一体なんなのか。
この日の夜ご飯は食堂でチキンライスとラーメンを頂き、早々に眠りに就くべく、人気のなくなった商店街を足早に通り過ぎホテルに戻るのでした。


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