2017年9月 山形6日目(山形市):山形市内めぐり


この日はゆったりと起きて、ゆったりとモスBで朝食を済ませます。山形まできて…と思われるかもしれませんが、モスBは東北から生まれたのですよ。(創始者は岩手生まれの日大出身。郡山市の日大工学部にモスBがある事で他大学生の羨望を集めていたものでした(笑))
閑話休題。さて、まず本日は山形城に行きます。ほどなくして、大きな堀と大きな石垣が見えてきました。よく整備されたお城で、奥に進むとクレーン車が動いていたりしてまだまだ復元に力を入れるみたいでした。
石垣の加工方法について詳しい説明があり、下写真のようにはつり仕上げと線彫りを施した石垣が見られるそうだ。他に、石組みの井戸の説明があったくらいで、山形城の全貌解明やより詳細な説明はこれからの研究や発掘次第ということなのでしょう。

崩落したり地中に埋められていた石垣石を再利用して復元した石垣。もし全ての石に線刻が克明に残っていたなら壮大な眺めであったでしょう。細かく刻まれたこの縦線は、「線彫り」もしくは「はつり仕上げ」と呼ぶと説明がありましたが、両者の違いについて私は理解することができませんでした。

そして、山形城のそばにあった「山形県立博物館」へ向かいます。やはりこういう自治体での博物館は見ごたえがあって面白い。政令都市や特別区を抱えるような県・府・都では、下位自治体が強すぎて○○記念館・○○美術館・○○鉄道館というようなテーマごとに細分化した博物館が乱立してしまい、県立・府立・都立が運営する博物館の存在が無かったりする。その県の歴史を網羅して知る機会が無いというのは痛いと思います。そう言えば、政令都市も特別区も無い奈良県でさえ、奈良県立博物館は存在していないのだった。

またまた閑話休題。
この山形県立博物館の一番の見所は地質分野の展示にあり、岩石・鉱石の展示、古生代や中生代の岩石分布図に山形の地殻変動などの説明はとても判りやすく面白かったです。山形の盆地はかつては全て海で、千歳山が竜紋岩系、蔵王山は安山岩とな、ふむふむなるほど…。翌日の観光先は山辺町にするか山寺にするかで悩んでいたのですが、これで心は決まりました。よっしゃ、千歳山から馬見ヶ崎川沿いへ岩石巡りの旅や。

考古分野も見ておいて損はしないでしょう。奈良や大阪に住んでいると「古墳」をキーワードにした展示が数多く開催され、したがって古墳の周りに置いている埴輪の研究もかなり盛んで2、3の博物館を巡っていたら充分「埴輪」について学ぶことは出来ます。しかし、私は「土偶」展を見たことがいまだ1度もない。
西ノ前遺跡で発見された「縄文の女神」の異質さ(不気味なではなく、土偶らしからぬ美しさを持つという意味で)が考古展示の売りになっています。併せて縄文時代のかなり手の込んだ文様土器にも注目すると良いでしょう。弥生時代以降の文化と全然違うことが感じ取れます。

朝からゆったりと時間を過ごして来たせいか、空腹を覚えたのはもう昼も過ぎようかという頃合で、慌てて蕎麦屋を探しに博物館を飛び出しました。蕎麦屋は閉まるのが早いからです。さて暖簾をくぐったのは、山形城の大手門近くにあった蕎麦屋「日月庵」。ここでもやっぱり板蕎麦を頂きました。


午後のトップバッターは山形城の敷地内にある「山形市郷土館」です。モダンだともてはやされていたであろう、その西洋風建築物を見て郷土館っぽくないと違和感を感じていましたが、中に入るとその違和感はさらに強まります。煙突のように高く建った円筒状の建物の中心には庭園がありました。そこをぐるっとテラスのような渡り廊下が囲んでいるのです。どこに居ても常に誰かに見られているようなその造りは苦手です。それもそのはず、かつては病院だったのだそうです。
展示物も変わっていて医療器具や医療研修の様子を撮影した写真、薬、人体図解が小部屋全てを埋め尽くしていました。これを郷土館と呼んでいいのかどうか…山形市は先進的な医療制度を取り入れていたという事なんでしょうか。ちなみに、この病院を建てたのは三島通庸という鹿児島出身の初代県令なのだそうです。特に土木工事が大好きで宮城県境にある山のトンネルを掘りまくっていたらしい。
奈良に帰って写真の整理をしていたら、ふっと気づいた。この人、三島通庸だよね?。鹿児島旅行していた時は三島のことなんて全く気にしてなくて、おもむろ墓石の灯篭の造りが不思議やなぁと思い撮った写真だったのでした(鹿児島旅行4日目)。

その後は最上館と文翔館を廻りましたが鎧や刀はさっぱり判りませんし、文翔館は建物が立派だとは思いましたが興味が持てませんでした。どっちもボランティアガイドが売りのようなので、行かれるときはガイドをお願いしたほうがいいのかもしれません。
《文翔館》 建物は立派。県庁として使われていたらしい。ここで井上ひさし氏が山形出身であることを知る。井上ひさし氏は『犬の仇討ち』という忠臣蔵を題材にした本を書いているので非常に興味を持っていたのでした。しかもこの本がどの古本屋でも見つかる事のない代物なのです。

山形駅前の大通りがビルや居酒屋中心になっているのに対し、文翔館前のそれはスーパーや百貨店など生活の場という感じが強い。お気に入りの(笑)大沼デパートもこちらにありました。
午前中、博物館でボランティアガイドをしてくれた男性は、山形市には空襲がなかったということを言っていたのですが、その割には大きい道路がきちんと整備しているように感じます。空襲のなかった町は大概、古い街並みが残っているので道路が狭くごちゃごちゃしているんですけどね。
山形市の交通事情で興味深いのが、山形市から仙台市に通勤している人がほとんどじゃないか、というくらい頻繁に…そう、10分置きにバスが出ているんですね。関西からの旅行計画だと、飛行機で仙台に行き、バスで山形市、電車で米沢というのもありだと思います。そんな山形市の人口の昼夜比較や週末の人の流動データが見れたら面白そうです。実際のところどうなんですかね?
こういう生活の匂いがする道はホッとします。写真の「七日町生鮮市場」でまたもやオヤツ用に大量のプルーンを購入。またかいな!という感じですが、しかし、購入時のやり取りと言いプルーンのおいしさといい青空の下で食べた米沢のプルーンが恋しくてたまらないのでした。

この大通りには書店があり、郷土本コーナーもあったので、そこで本を手に取りながら相棒と議論をする。この本は買うべきか、読みたいと思うか、どういう点が興味深いか、延々と議論。次々と本を手に取っていく中で、1冊の雑誌が我々の議論を止めさせるのです。タイトルはあまり覚えていないけど、山形の県民性みたいなそんな感じの雑誌でした。「ケンミンショーみたいなそんな感じのやつやろ」と思ったけれど、意外に面白い雑誌で、平成の大合併に山形の市町村はどう動いたかというコラムが載っていました。いわく、山形県は平成の大合併による市町村の減少率が20%であまり進まなかった自治体である。原因の1つに(?)米沢市が殿様気質であると周辺市町村が受け止めたため合併を嫌がったと。雑誌までもが米沢は殿様気質と持ち上げているのが面白い。
しかもその嫌がった側の川西町出身者が先ほどの井上ひさし氏なのです。忠臣蔵の吉良上野介の息子は上杉氏の養子となり、それ以降上杉氏は吉良氏の血に変わっています。つまり殿様気質の米沢上杉氏は吉良氏ということになるわけです。(現当主の上杉氏も西尾市で吉良講演会を開いている。)この関係も考えてみると色々と妄想が膨らんできて楽しいものです。

すっかり辺りが暗くなってしまいました。
山形駅前の大通りにあったラーメン屋を夜ご飯にし、この日は早々に布団にもぐり古本屋で買った「米沢史談」を読みながら眠りに落ちていくのでした。


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