2017年9月 山形5日目(山形市):常明寺〜富神山麓〜長谷堂


恒例になりつつある朝御飯の公開、今朝は巻き寿司が高菜漬になっている助六と、だだちゃ豆豆腐です。醤油がなくそのまま食べたのが良かったみたいで、豆の味が分かりやすくて良かったです。

ホテルが立地する周辺は山形城の三之丸だった所で、すぐ近くには土塁がありました。夜はこの土塁をライトアップして、ホテル内のスナックや食堂からも見えるのを売りにしているようです。もちろん宿泊した部屋からも見えました。

本日は山形市の西側を、北から南へ突き抜ける予定で、まず西を目指し山形駅の裏に周り、ひたすらまっすぐに歩きます。
駅の東側がオフィスビルや百貨店、コンビニ、居酒屋などが立ち並ぶ、賑やかな街並みであるのと対照的に反対側は住宅地が広がっています。ひとまずの目的地は、住宅地の向こうに見える山々の麓の「常明寺」地区です。
元々は「要害」「古館」という地名が興味深くて、Yahooの地図を眺めていたところ近くにあった「常明寺」地区が気になってしようがなくなったのです。そのため今回の行程に組み入れました。無数の小さな溜池が敷き詰められた地区なのです。

和菓子屋へ寄り道して「わらび餅」を購入します。前日まで米沢にいた事を言うと、そこの女店主が言うには、山形市は雪はそれほどひどくないということと、常明寺の鯉は観賞用だという事でした。そして、オススメが「わらび餅」だという事でした!
一押しなだけのことはある「わらび餅」を須川のほとりで存分に味わい、橋を越えると次第に田園風景に変わってきて、ひときわ目立つ道の駅「薪の駅」の建物が見えてきました。入ってみると、赤みずの実やらマイタケやらが売っている。商品を補充しに来た男性に「どこから来て、どこへ行くのか」という名言みたいな台詞で聞かれました。答えると、「常明寺まで30分富神山まで30分長谷堂まで30分」と全て30分単位で答えていたのが何か面白かった。

店員さんからは、赤ミズと青ミズは昔から食べていたが最近は赤ミズの実も食べるようになり秋田の食習慣が伝わったのだろうということ、田んぼを休める時に蕎麦や豆を植えるということを教えてくれました。生野菜のミズを今ここで購入するわけにはいかなかったので、他の珍しそうなもの、またたびの干物とか蕎麦粉、梨を購入しました。

ちょっと重くなったリュックを背負いつつ緩やかな坂道を歩いて行くと、山に近づくにつれ写真のような池がちらほら見えてきます。 和菓子屋での会話で答えを出してしまいましたが、常明寺地区にある無数の溜池の正体は、鯉の養殖場だったのです。一見すると水を張った田んぼに見えます。近づくと、鳥害予防に細い糸を張り巡らし、池の中には鮮やかな色の鯉が元気良く泳いでいるのが見えます。

さてここで私事ですが、我が家からそんなに遠くない大和郡山市というのが奈良県にあります。金魚の特産地で毎年金魚すくい全国大会も開催しているくらいの力の入れようです。常明寺地区のように小さな溜池が無数に並んでいるのを何度か見に行った事があり、水の流れが停滞しやすい平地だからなのか溜池がどれも濁っていてクサイんです。
なるほど、それで山の麓なんですね。常明寺地区の溜池はどれも綺麗で、養鯉の水は下段に位置する田に流しているような感じでした。栄養が含んでいて田にも良いのかもしれない。

養鯉をやっている方とお話がしたくてうろつくも、時期ではないのか、一人も姿が見えませんでした。小売り店舗も、買うわけでもないのに入るのはさすがに気が引けましたので、遠巻きに見学というスタンスで歩いて行きます。
小売店の看板が、とても味のある手描き風の鯉絵です。しかし目を引いたのは、近くにあった鯉配達用と思われるトラックが派手な鯉デコレーションだった事です。荷台にでかく書かれた文字を読むと「金魚問屋」。鯉じゃなく金魚なんや。へ〜。

常明寺地区の近くの古舘地区より山形市街地を眺望す。遠くに見えるのが蔵王連峰、スキー場で有名ですね。
古舘地区は山麓の小高くなった所に位置し、北には要害という地名が見えるのでなんらかの拠点があったのだろうと想像しています。しかしながら要害には、私有山が続いていて「キノコ栽培につき立ち入り禁止」の看板が立っていたので、入山することはできませんでした。
ともかくも鯉が見れたことで満足した我々は、方向を変え、山麓に沿って南に向かって歩いていきます。

円錐形の美、富神山。
山形市周辺の地形の特徴として面白いと感じるのが、この美しい円錐の形をした山が多いということです。それも、山麓に多く、山脈の線がなだらかに平地に降りて行く先っぽにスッと立っているのです。ええ、見事にスッと。山形市東部の蔵王連峰の扇状地付近に並ぶ千歳山や猿岡山、鷹取山なんかは全てが円錐形、西部の白鷹連峰の扇状地辺りだと大森山や富神山、文殊山が美しい容貌です。
扇状地付近であるという事は川に洗われて硬い火山岩石が残った結果の姿なのだろうと推測します。

人目がないのをいい事に、道の駅で買った梨をかじりながらさらに歩いて行きます。この時はまだ「おやつ」気分だったのですが、梨を購入したのは正解だったと後々思い知る事になります。何故ならば市街地に戻るまでの間、飲食店なんてのは1つも見当たらなかったからです。そんな事も露知らずルンルンとつまみ食いしていると、やがて左手に、本日最後の目的地である長谷堂らしきものが見えてきました。

長谷堂(城山)への入り口です。
三方が開けている単山気味の、楕円の形をした丘でした。登山口が6つもあり、そのうちの1つ「観音坂口」から登って行きます。ここが、もうひとつの「関ヶ原の戦い」であったと言われる「長谷堂の戦い」の舞台です。直江(上杉)軍=豊臣派VS志村(最上)軍=徳川派で睨み合った布陣が、下の写真になります。
こぢんまりとした丘なので、ここに5000人も詰めていれたんだろうかと疑問。詰める分にはいいんですけど、人材を上手に活用しきれたんだろうか。

クリックで拡大写真が見れます。
結果はいわずもがなで、直江軍の敗走と、領土切り取り次第と約束された最上軍の激しい追走が狐越峠で繰り広げられていた話が有名です。睨み合っている最中に、「西軍敗れたり」の報が入ったためこのような形勢になったのであり、敗走したとは言うものの直江(上杉)氏は戦力において敗れたわけではない。ひとえに時の運。
しかしながら歴史というのは面白いもので、上杉氏は江戸時代を通じて大名として生きながらえてきましたが、勝利したはずの最上氏は三代くらいでお家騒動により改易、そして断絶しています。

長谷堂から見る村山盆地。置賜盆地と比べるといくらか市街地の規模が大きいように見えるが、青みがかった田が織り成す優しい雰囲気は変わらない。
城山を埋め尽くすようにあちこちを通した道に沿っていくと、説明看板がちらほらと立っているので、どういう遺構がどこにあったのか知る事ができます。

北側には、「直江本陣」と呼ばれるちょっとした丘が見えます。その奥に狐越峠があるわけです。こんなに近い距離で睨み合っていたんですね。さらに陣地を張る山は、放火対策にあらゆる木を刈り取っていたと言われています。丸見え状態だったとしたら余計に近く見えたことでしょう。
直江本陣だったと言われている丘はというと、今やニュータウンとして戸建が行儀よく並んでいます。しかし、面白いことに丘への出入り口にお墓が並んでいるので古くからある集落もこの丘のどこかにあるのではないかと思うのです。さらに、反対側には古墳もあり、畑もある。そこにニュータウンとしてどこぞのオデコのテカテカてかった不動産のおっさんが開発しにやってきたのであろう。

伊達政宗は、最上氏の味方であったかのように言われている事が多いけれどそれは結果論で、伊達軍(湯目氏)が陣を張っていた場所が前述の布陣マップで判るように、城山から徒歩1時間半越えるかというほどの位置にありました。あくまで推定なのですが、伊達氏はおそらく最上の勢力も減ればいいと思っていたのではあるまいか、と思うわけであります。
しかし、写真にある湯目氏戦死の場所を記念とした碑が立っているのが、須川のはるか南、直江本陣そばの直江軍のすぐそばです。なぜ、湯目氏はそんなに伊達軍からかなり離れたところで撃ち死したのか。湯目が夢を追い求め功名にはやりすぎたのか?それともなにか別の理由からなのか?ここも想像に頼るしかないのですが、伊達氏も一枚岩ではなく家来の中にも色々な人が存在したであろうことを示すものなのだと思います。

長谷堂の戦いの舞台から、市街地に戻ろうにも停留所で確認してみたら、バスは1時間後の時間で待っていられないのでとにかく歩いて戻ることに致します。帰る途中、食堂で蕎麦とウドンでお腹を満たし、ドラッグストアで湿布を購入。歩行距離アプリで確認したらこの日が一番長く足首やら太ももを痛めてしまった。
ホテルに帰着してもなおお腹がまた空いてしまったので、近くのモスBBで夜食。この日からモスBBにはまってしまった。ファーストフードなんて何年も食べた事がなかったのに。
そしてホテル1階のコンビニの店員にもなぜか覚えられてしまった。なぜ?と疑問を胸に秘めたまま夜は更けていくのであった。


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