2017年9月 山形3日目(米沢市):ザワ衆B


朝食は、昨夜購入しておいた「鯉こく」と「新豆豆腐」を頂きます。新豆だからなのか青みがかったのがおいしかったです。鯉は思った以上に味薄めで骨まで食べれるようにしてあったのですが、その食べやすさが逆に鯉の個性を失っているように思えました。

ところで初日の米沢記事で、少し話題にした「館山城ガイドブック」のことを覚えているでしょうか。
山形旅行が終わった後の注文でも良かったのですが、せっかくなので、昨日のうちに発行者に電話をかけたのです。ホテルへ届けに来てくれるともおっしゃって下さったのですが、我々が発行主のところへ訪問するという話にまとまり、夜のうちに道順も実際に行ってみてチェックしておいたのでした。

約束の時間よりだいぶ早い8時だったのでホテルの周辺を軽く歩いてみます。すると裏手に面白そうな看板がありました。米沢城の三之丸がこの周辺にあったことの説明ですが、興味を引いたのが、 天長7年皇紀1490年(830年)に大地震で李山(南原町付近の大字)の湖水が減退してしまったという話です。拠出は「長泉寺縁起」であるらしい。李山や南原を屏風のように取り囲む「斜平山(なでらやま)」や「赤崩山」という山の名前から推し量ると、土砂崩れによる減退(消失)もありえそうです。
蒲生氏時代(1591年〜)に米沢城を「松ヶ崎城」と改めたとも書いています。城主が近江国松ヶ崎出身であったことに由来するという話もありますが、今で言うと滋賀のどの辺りなのだろう?たったの6,7年しか支配していなかった土地に松ヶ崎の地名を刻み込めるのだろうか?
今は「松が岬」と表記することが多いですが、いずれにせよ米沢城の三之丸は少なくとも李山から流れてくる松川に面していたのだろうから、「松」川の「岬(崎)」と意識されていたように思えます。米沢城下を潤わしているのは、松川を李山麓で分水して「堀立川」として引いている川であり、米沢城下を流れ巡って再び米沢市の北部で松川と合流します。生活用水に使われた堀立川がまだ無く、松川のほうがまだ身近だった頃の名残りかもしれません。

そして、発行主宅への訪問です。
開け放たれた玄関に向かって、声をかけてみました。するとこの家の夫婦が出てきて「あばら家ですがどうぞ一服を」と主人が挨拶してくれましたが、婦人は「あなた、朝ごはん残ってるよ」というような事を言っていました。しかし主人はまったく意に介していないようで、どうぞどうぞと我々を上がらせてくれました。
玄関の壁に、大きい地図が貼ってあって置賜郡の城館や館遺跡をマップ化したもので、主人が頑張って作った宝物のようでした。
私たちは客間に案内され、どうぞ一服と婦人がお茶を入れてくれました。主人は私たちの向かいの座椅子に座ったのですが、その姿がまるで床几に座った武将のような雰囲気でした。昨日の原方衆の方といいこれが米沢人の性質なのでしょうか。
そして、話したくて(軍議したくて?)ウズウズしてたであろう主人が口を開いた。「平成に入ってから文化庁が遺跡調査を全国一斉にやりました。その調査を元にして私が作った地図がこれです。」と、先ほど玄関で見た地図の縮小版を見せてくれました。
こちらの主人は舘山城跡の所に土地を持っていて、十数年前に市に舘山城の重要性を主張して国指定を受ける事ができたそうです。今は一人で草を刈り看板も建てていてしんどうそうなのだが、全国から色々な人が舘山城に来てくれるのが励みになっていると言っていました。
色々と話しをしてくださったのを軽く要約しておきますと、昔から舘山城というのは知られていて、文献などを主に調べられていたが、平成に入って教育委員会の調査から大きく注目されるようになった。
米沢では上杉が第一なので伊達の事はあまり言えない。教育委員会は舘山城の石垣を、石積み技法から上杉氏が作ったものと言っているが、主人は東北一進んでいた伊達ならば最先端の石垣を作っていたと思っている。そして、上杉ばかりを全面に押し出していくのではなく、伊達がいたことの歴史も正しく表現していった方が面白いと思うと言っていた。
これは私たちも同じように思う事が多々あります。私たちが住んでいる橿原も古墳だけではなく、戦国時代もあり、江戸時代もあったわけです。そういうものもひっくるめて歴史の流れというものを紹介していくべきではないかと思います。
最後に気になっていた事を聞いてみました。「ご主人はザワ衆ですか?」と。
しかし、質問の意味がうまく伝わらなかったようで、「ザワ衆は性格的に今も周りと微妙な関係だ。」と意味深な発言をしていました。私たちもこののち山形市に行った時にその意味が分かりましたが・・・・。
色々話し込んでいたのですが、主人に電話がかかってきたのを合図にお暇することと相成りました。まだまだ話したり無さそうな主人は「夜にでも来てくれたらもっと余裕があるのだが・・・。」と言っていたが、さすがにそこまで時間を取らせるのも気を使ってしまいます。次回来た時にまたお話しができたらなと思います。

そして、1日目に通った道をまた通って御成山へ向かいます。山入口の近くにプルーンを売っている店があり、プルーンのすっかり虜になっている我々はそのお店の軒先に吸い込まれるのでした。500円分のプルーンは多すぎるので、300円分に出来ないかとお願いしたところ、「じゃあ、色々な種類を詰め合わしたるわ」と言って、そんなに入れてくれんの?というくらいの量を袋にどんどん詰めてくれて、さらにおまけでリンゴまでつけてくれました。どうもありがとう!

色んな種類のプルーンを味わうなんて人生初です。今年は出来がいまいちだと言っていたんですが、なんのなんの。リンゴもめっちゃおいしかった…。


この日は気温が高く、少し登るとすぐに汗をかいてしまうというような日でしたが、道端に勢い良く生えている野生の茗荷や青シソのたくましさに元気づけられつつ登って行きます。御成山の頂上に着くと、そこは展望台になっていて車が2台くらい止まっていました。平日でも来る人が居る市民に慣れ親しまれている山なのでしょう。
下写真が展望台から見た米沢の街並みで、クリックすると拡大写真がご覧になれます。広い平地で高いビルもないし中途半端な丘も生えていなくて、ただひたすらに置賜盆地が広がり、そこに赤や青の屋根が輝きを放ち、見る者を虜にしてしまう。
※西から見る米沢。真ん中に見える社叢が上杉神社です。


さらに急な坂道をひたすら上がって行きます。展望台くらいから砂利道になりますが、道自体は綺麗に整備してあって軽自動車なら片道通行はできるようにしてありました。車とすれ違うことなく、周りの山々に心奪われつつ、やがて羽山神社に到着です。参道を上って羽山の頂上に向かいます。館山パンフレットではここも1つの城として紹介されていました。確かに頂上はやや平坦に削られていましたけれども、兵を配置するほどの広さには見えないので、置賜盆地に対する物見台であったのだろうと思いました。


尾根伝いに次は愛宕山に向かいます。こちらは555mの山で、米沢市を一望できるちょっとしたビュースポットもあります。頂上はL字型の削平地になっており、奥に人が1人通れるくらいの小道がありました。笹野山に続く小道なのですが、館山パンフレットでは「虎口」となっていました。確かにかなり狭められているようにも見えます。
君臨する愛宕神社も石造物や拝殿が新しく、羽山神社と時を同じくして新装したのだろうかと眺めていたところ、銅銭が落ちているのを3枚ほど見つけまして。目を凝らして観察したところ判読できたのは1枚だけで「大正11年1銭」とあり、他の2枚は全く文字が見えませんでした。台風かなにかで賽銭箱が流された事があったのかもしれませんね。明日、館山パンフレットの発行主さんのところへ持って行って、あげようと思うのでした。


そして次の目的地が片倉山です。藪をかきわけながら行くような山で、遺構が見られるであろう平坦地が無くどこが頂上なのかが判りにくくて、館山パンフレットを見ながら何度も行ったり戻ったりする羽目になりました。結果、「地蔵園」「高志田」の看板が建っている辺りだということが判明。看板の手前に深い立堀があるのでそれを目標にするといいと思います。
曲輪は判らなかったけれども、帯曲輪らしきものを幾重か見つけれました。そして高志田方面に下りていくと虎口も2箇所ありました。急な斜面を踏ん張りながらどんどん降りて行くと1軒の民家の庭に出てしまいました。それにしても、自分たちがこれだけ登ったのかと改めて驚かされます。
登山入口が民家の庭の一角になっているらしく、年配の男性が大音量のラジオを流しながら屋根のペンキ塗りに励んでいました。登山で出入りする人がよくあるからなのか、たいして警戒されることもなく我々を見てニヤリとしていました。


昼御飯はリンゴとプルーンのみですっかりお腹を空かしていた我々は、米沢市街地に急ぎ足で戻りました。なにせ山々の麓にはただっ広い田畑が広がり、飲食店は期待できそうにもありませんでしたから。1時間30分ほど歩いたでしょうか、米沢に来て初めての日が高いうちの市街地に戻ってきました。
こちらはホテルに近接する「武者道」と呼ばれる小路で、真っ暗で気づかなかった看板に説明が書いてありました。
【武士だけが通ることが許された細道で、米沢城三之丸の堀に沿って作られた。南原に住む原方衆が買い物をする時に歩いた道とも言われる。】
武者道を境目に米沢城側は上級武士団が住む屋敷町、反対側には町人町があったようです。上級武士団は使用人に買い物や用事を言い付けるでしょうから町人町に行く機会があまりなかっただろうと想像できます。それに対して、原方衆は武者道を通って自分で買い物に来ていたらしい。町人と親交が深かった人もいたのかもしれません。
そこで、次のような疑問が湧くわけです。町人や農民とは一体誰のことだったんでしょうか??もちろん、「士農工商」における、職業は世襲的で各々が職分を全うすべきという儒教めいた思想に基づいた区別ではなく。単純に、上杉に従ってやってきた人なのか、もとから居た人なのか?

百貨店「大沼」に寄って、明日の朝ごはんを確保。お腹が空いていたはずなんですが好奇心に負けて、興味がありそうなフロアに降りては散策を繰り返し米沢で売られている珍しい商品というものを楽しみました。米沢焼、黒と白に近いねずみ色の釉で彩られていて地味だけど落ち着く感じの陶器でした。買おうかめっちゃ悩んだんですが…またの機会に。そして買ったのは麺類で、「月山そうめん」「蕎麦つをろ」「麦切り」。またもや麺の大量買いをしてしまいました。
地下スーパーで見た面白いものは「うす皮丸なす」というミニ茄子で、箱売りしていました。日常食ということなんですね。あとは関西では見ないしその実がよく売られています。醤油漬けが大好物で青唐辛子を一緒に漬けてもおいしい。それから山菜の干し物が多い。珍しかったのが、見た目がぜんまいの干し物に似ている「さんごくたち干し」。買ってみるべきだったか?

好奇心が満たされたのでお腹を満たすべく、パンフレットに載っていた蕎麦屋「弥平」へ訪問。この蕎麦屋にたどり着くまでに、2,3軒探したんですが、どこも16時とかランチタイムのみとか閉まるのが早くてさまよってようやく入れたお店です。
お腹が空きすぎるわ、ヘトヘトだしで。
出て来たざる蕎麦はやっぱり板蕎麦でした。こういう木の器もなかなか良いね。相棒はもり蕎麦でした。お腹が空きすぎていたのであっという間に平らげ、そば田楽も追加注文してしまいました。こちらの蕎麦は食感がしっかりしたタイプの蕎麦でした。個人的には原方衆の方が好きですけど。
なでら山から見下ろした上杉の城下町。その広々とした空間やゴツゴツとした印象の米沢の方々、ほんの少しだけど米沢というものに触れられてとてもいい一日でした。






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