2017年9月 山形2日目(米沢市):ザワ衆A


寝ている間に台風は通り過ぎてくれて、ホテルを出るといくらか天気が良くなっていました。本日は、米沢の南部にある「南原」に向かいます。
下の写真は米沢市街地の一風景で、落とし穴かと見紛うばかりの排水路と、不思議な二重窓(窓のカバー?)が目を引きます。土蔵の役割は財産を火事から守る事で、換気のために高いところに作られた小窓は普段は開けっぱなしにしているのですが、米沢の土蔵は窓が大きく低い所にあるので、雨や雪が入らないよう窓カバーをつける羽目になったのでしょう。でもこれでは泥棒に侵入されてしまいますよね。

途中、林泉寺に寄りました。
上杉謙信以来の菩提寺として権力を持っていたこのお寺には、重臣や直江氏、正室などの立派なお墓が並んでいます。元は新潟の春日山麓にあったお寺でしたが、謙信没後、景勝の代になるとお国替えに付き従い、越後から会津、そして米沢にやって来ました。
昨日の最上川(松川)近くにあった今町石観音堂のように、動かなくなった岩やご地蔵様を祀るお話は各地にあるのですが、こちらは実際のお国替えのお話として語り継がれています。松川が米沢城下町への入り口である事から、塞の神のような信仰もあったのかとも思いますが、「町ぐるみの引越し」がいかに大掛かりなものであったかという表現も汲み取れます。それにしても「岩石」まで引越しの対象としていたのかと驚きますが、林泉寺の例で見るように謙信の遺骨も、一族郎党のお墓もすべて引っ越してきたというのなら納得です。

林泉寺は墓地見学のみなら100円、本堂見学含むなら400円。東北に多い(というイメージがある)曹洞宗です。説明も受けられるとの事だったので、後者を選択し入って行きましたが、興味が湧きませんでした。上杉オタクなら話が合うかもしれない…。説明員さんは気難しそうなオーラを放ち、京都から来たという旅行者が線香を口で吹き消したら「喝!!」、私も帽子をかぶったまま中に入ったら「喝!!」
しかし、雑談をしてみたら普通の人で、気になっていた「武田信清」のことを聞いてみたら、あまり研究されていないんじゃないか、このお寺では武田家は今でも大檀那で「大居士」や「院殿」とかいう戒名を持っている、とのことです。上写真が、武田信清のお墓で武田菱の家紋が彫ってありました。
信清が高家衆筆頭として上杉家で何をやっていたのかが知りたかったのですが、何も判らず仕舞いでした。米沢藩以外で高家衆は聞いたことがないので、幕府の高家衆に対して、上杉家がわざわざ挑発じみた事をしていたような妄想もしていたのですが・・・(笑)米沢武田氏の事は今後の楽しみにとっておくことにします。

そして、上写真が直江氏ご夫妻のお墓です。松がお見事でとてもいい風景でしたが、「浄心」が異物に見えて残念。元来、直江氏の菩提寺は別のお寺だったのですが、直江の死後、林泉寺との権力争いに破れ住職は新潟の「与板」に追放されます。菩提寺消滅により直江夫婦のお墓も林泉寺に移って来た訳ですが、恐らくは直江直系の家臣団「与板衆」も力を失っていったのでしょう。
そしてまたこの事件は、「上杉氏」を頂点とした支配体制の強化とも読み取れます。決して、直江を始めとする与板衆を貶めたかった訳ではなかったことは、このお墓の立派さが物語っていると思うのです。

最後、説明員さんに「なぜ米沢のコンクリートは赤いのか?」と聞いてみると、「それは、雪を溶かすために井戸水をパイプで流しているのだけど、鉄分の濃い地域もあったりしてそれで赤くなったりならなかったりする」というお話でした。ようやく赤いコンクリートの謎が解けて、コンクリートを見る目が変わり、パイプが埋まっていることも目に入るようになりました。ここに来るまでの間も視界に入っていたはずなのに見えていなかったとは、見てる世界が意識に左右されているという訳なんですね。

林泉寺をおいとまし、パッとしない天気のもと米沢の南へと再び足を進めます。その途中、とある墓地の荒れっぷりの凄まじさにしばし足を止めてしまいました。1つ1つの墓石を注視してみますと、格子状に造形した墓石がいくつか見えます。さきほどの林泉寺でも良く見たタイプの墓石です。
林泉寺でせっせと働いていた庭師のお話では、「この辺りでは武家だけではなく一般庶民もその形が普通。最近はめっきり建てる人が居なくなった」とのことで、珍しい形をしています。一説によると直江氏が考案した形で、戦時や非常時でも墓石が活用できるよう棒で通して持ち運びやすくしたものだと説明員さんは言っていました。
「脆い岩石だから正面から中が見える箱型にすると雪ですぐモロモロになってしまう。だから少しでも持たせるために穴を開ける形になった」と、庭師は、解説員とはまた違う解釈のしかたをしていました。
表面がかなり風化していて、触れてみると混じっていた珪石がこぼれ落ちそうなくらいでした。ほとんどが凝灰岩のようです。

照陽寺の上杉憲政のお墓、常安寺の雲井龍雄のお墓をぶらりと寄り道しつつ、南を目指し線路を越えて行きます。米沢市街地は三方を線路が囲んでいるので越えるということは、「外れに出た」という感覚があるのです。実際にこの辺りから、田畑や閉めっぱなしであろうシャッターのお店などが目立ってきます。
ファミリーマートに寄って飲料購入するついでに、店員さんに「蕎麦屋の曲家なでら」までどれくらいか聞いてみたところ、近くの山形大学の学生さんらしくて自信満々に「10分!とちょっと」、じゃあ20分と見ときますわと言うと、「いや!長く見ても15分あれば着く」と。楽観的な東北人らしい返事のように思えました。
少しずつ上がり気味になっている道をひたすら歩いていると、いつの間にか空が青くなっていました。青空の麓には斜平(なでら)山が横たわり、その下には蕎麦畑が広がっています。山形といえば蕎麦ですね。
なでら山麓の、狭く痩せた土地(南原・東原)に住み着いた上杉の武士団は「原方衆」と呼ばれました。石高を減らされた上杉家には禄(お給料)が期待できず、それでも付いて来た下級武士にはなでら山の麓一帯が与えられ自力開墾しながら半士半農の生活を送ってきました。俗に言う「郷士」です。

蕎麦の花。初めて実物を見ました。うわ、感激。
白い花をつけている畑を眺めながら歩いていき、大学生の言うてた15分を余裕で超え25分ほどで蕎麦屋に着きました。が、なんと。敬老会の集まりのため本日は貸切のビラが貼り出されていました。残念ですが仕方がありません。何かあるかも…と隣の笹野土産センターに入って行きます。すると、テレビを見ながら煎餅を頬張る女性が奥に見え、入り口の付近には韓国海苔やお菓子が並び、チマチョゴリを身に着けた女性のポスターがたくさん貼ってありました。「これは?」ネットで見た事のある韓国に占領された村の記事が脳裏に蘇り、心がザワ…ザワ…とうなりをあげてしまうのでした。
どうやって帰ろうか迷っていると、テレビと煎餅が一段落したらしく声をかけてきました。南原町の手前にある笹野町の特産物としている一刀彫の土産屋で、鳥の彫り物ばかり置いてありました。きっと鳥の羽の表現が売りなのでしょう。変わった形の刀で削って造っているようです。
この辺りに蕎麦屋はないか聞いてみると、元気になり立ち上がって電話帳で調べたり色々考えてくれました。徒歩で来たことを言うと、自転車を借りれば良かったのにと自分のことのように悔しがっていました。「もみじ庵」という蕎麦屋が今からでも予約可とのことでとても親切な女性で助かりました。しばし世間話に花を咲かせましたが、蕎麦屋を待たせてもいけないので先を急ぎます。


「もみじ庵」。看板に「原方」の文字がある事に、テンションが高くなってしまい、ソワソワしながら店内に入って行きます。お店と言いますか立派なお家なのですが、奥さんが迎えに出てくれて座敷に通されました。待望の山形蕎麦なので、張り切って大盛り2つと掻揚げ2つを注文。まず付出しが出てきてアーモンドとゴマを寒天で固めた前菜、大根の漬物、菜っ葉の浅漬け、掻揚げ、これだけでもうおいしくて。と言いますかね、昨日のラーメン屋といい前菜の漬物が本当においしいんです、米沢は。
前菜を頂きながら待っている間、包丁をリズムよくトントン…トントン叩く音が聞こえて今まさに打っているのかと吃驚したのですが、その打ちたての蕎麦がやって参りました。

目の前に現れた待望の蕎麦を見て、二度吃驚です。長く大きいお皿に乗っているんです。初めて知ったんですが、「板蕎麦」と呼ばれる山形特有の盛り付けで、本来はもっと大きな木箱か板に蕎麦を盛り付け、村の集まりなどでみんなで分け合って食べていたんだそうです。
由来にゆかしく感じましたが、ここで特筆すべきは蕎麦がおいしかったということです。わたしが経験したあらゆるどの蕎麦よりも。やや平麺気味、蕎麦の粘り気、香りがあり、おいしい蕎麦でした。奥様が蕎麦湯を持って来てくれたので、この辺り一帯の米の獲れ具合や、蕎麦のことを尋ねてみました。蕎麦はやはり打ちたてで、昔は米が取れず蕎麦ばかり育てて奥様の祖母の代では蕎麦はまずい食べ物という認識だったというお話をしてくれました。
しばらくするとご主人が出てきました。膝を折り手をつき頭を下げて挨拶して頂いたので、思わずこちらも膝を正してしまいました。まるで武士のような所作、原方衆の魂いまだ忘れまじ。蕎麦打ちが趣味の相棒がどんどん話しかけています。自分の畑で取れた蕎麦実を、酸化してしまわないよう臼で挽いたらすぐ使うようにしているんだそうです。それであんなに粘り気が。
そして最後に聞いてみました「原方衆のかたですか?」。ご主人はちょっと照れたように「ええ、わたしの所はずっとここで続いています。」さらに聞いてみました「ザワ衆と呼びますか?」。またもや照れたように「わたしが子供の頃は言っておりましたが、最近はめっきり聞きませんね」。足が辛そうなのにかなり足止めしてしまいましたが、ザワ衆原方衆の話が聞けて大満足でした。また米沢に来て、またここに来ようと思うのでした。

スーパーにてレジの女性に「兼続堤」への道を聞いたところ、大した距離じゃないからこのまままっすぐいけと訛りの強い元気な返事が返ってきたことに勇気付けられ先へと進みます。
工業団地を通り抜け、やがて兼続堤が残ると言われる松川(最上川)のほとりに到着しました。上流とは思えないくらい川幅が広く水量豊かなので下流の最上川がどんなに雄大であることか推し量ることができます。直江兼続が取り掛かった松川の治水工事に従事したのが、松川近辺の「東原」に住む原方衆でした。それだけではなく氾濫監視や非常事態の対応も当たっていました。
薩摩における郷士制度と比較してみると、原方衆の特徴が見えてくるような気がします。米沢図書館が提供している情報にも書いていますが、時代が下るほどに明確な上下関係がザワ衆と原方衆の間で薄れてしまい、一説には、江戸時代中ザワ衆が営業する商屋が打ち壊しに遭ったことがあり、その首謀者が原方衆であったという文献もあるのだそうです(文献不明)。薩摩藩が雄藩でありえたゆえんもわかる気がしてきます。

松川では、河川敷に子供が十数人遊んでいて、大人が2人ほど大きな鍋や水筒を車に直しているところだったので、何かバーベキューのような事をやっていたのかとくらいにしか思っていませんでした。しかし、後ほどこれが山形人にとっての精神によりどころとも言える一大イベントであったことを思い知る羽目になります。
バーベキューでこげたような石積みを所々で見かけつつ、夕日の中をブラブラと川辺を散策していくうちに、川から離れて山の中に入り、やがて集落に入ったのか家が見えてきました。家の垣根がどれもふさふさとした柔らかな緑なので風景が優しげに見えるのです。その緑がウコギだという事と同時に、ここは東の原方衆の武家屋敷なのだという事に気づきました。
少しでも食べ物を自足したかった武士団は、垣根にウコギを植えることを推奨され、盛んに植えたのだそうです。久しぶりに見たなぁウコギ。私の実家では、胡桃と和えてフリカケにしていました。

しかし、国破れて山河あり。
住む人のなくなった多くの家は荒れ果て、垣根のみが柔らかげに生えている。
その影にひっそりと小さな小さな木の看板が立っていて、「○○家」と書かれているところもありました。観光客向けだとは思いますが、その過大アピールではない、苗字を持つ武士の誇りみたいなのがあっていいなぁなんて思ったりしました。
米沢図書館が上杉家関連の古文書保管にものすごく力を入れていまして、ネットで原本も見れるというすごいサービスを提供しています。「先祖由緒帳」というのがあって、これがすごく面白そう。古文書が読める力があればなぁ〜勉強しようかしら。。

そして、線路を再び越えて、市街地へと入って行きます。線路を越えただけでホテルに帰って来たかのような安堵感を覚えてしまいます。すっかり暗くなってしまった市街地を、うっかり落ちてしまいそうな排水路をよけながら歩いていきます。スーパーヤマザワで夜ご飯を調達するために。
買ったのは、筋子おにぎり、鯉のコトコト煮、鷹山ゆべしという、米沢らしいものばかりでした。やっぱりこれでなくちゃ。
さらに、桑原豆腐店で期間限定の新豆豆腐を購入、そしてさらにキムラスーパーで素麺小川、白石うーめん、石黒雪見うどん、そしてラフランスを購入(笑) ちなみに、上写真はスーパーヤマザワで見かけた面白いものです。
バーベキュー用の鍋や鉄板、おたまを無料で貸し出ししているんですけど、これ、米沢なら多くのスーパーがやっています。

それも、バーベキューというよりは、芋煮がメインのようです。売り場コーナーの里芋のところにも、肉のところにも、「芋煮の季節!!」と、まるで「芋煮やらないなんて言わないよね?」と圧力をかけてきているかのようです(笑)大げさな表現ですが(笑)
後日譚ですが、そんな私も芋煮にはまってしまい、奈良では今ちょうど里芋のシーズン(11月半ば〜12月末)で毎日のように食べています。


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