2017年3月 五日目:離島


小豆島旅行が速くも最終日になってしまった。この日帰るので、昼までの時間を有意義に使っていきたいと思っていたのだが、昨日と同じくホテルの朝食でのんびりしすぎてしまいまたもやバスに乗り遅れてしまった。バスを一時間も待っていられないので徒歩で土庄港へ向かう。

土庄港へ向かう途中、この写真のようにオリーブ農園?の造成、神社の補修、学校の新築とあちこちで工事されているところがあった。新しい小豆島に変わろうとしているのかもしれないが、個人的には今のおおらかな雰囲気のほうが好きだ。
そもそもオリーブって需要あるのかな?と、不思議に思ってしまう。

国道をひたすら進んで廃ホテルを通り過ぎ、ようやく富丘古墳群に到着した。
説明文を読んでみると、古墳時代の前期後半から中期前半の古墳で、富丘八幡神社本殿裏に頂上墳があり、稜線上のあちこちに古墳が分布しているようだ。頂上墳はもっとも古いようで四世紀末頃と考えられている円墳で、東西に二基の埋葬施設があり、竪穴式石室と組み合わせ式石棺で、竪穴式石室からは頭骨・鉄刀や鉄鏃などが出土。組み合わせ石棺では女性のほぼ完全な人骨が検出されている。
鉄の交易の中継地点といったところなのか?ここは山の先端にあり、昔はもう少し海が入り込んでいただろうから、港として使える所だったのかもしれない。

ここにもあった大桟敷。この階段をふとん太鼓が登ったり降りたりすると書いていたが、狭いからかなり大変そうに見える。そして下の広場で例の如くのかけあいをやって、この大桟敷で見物をする。
この石垣も古いのから新しいのまで色々あって、それぞれに個性を主張しているようにも見える。上の方になってくると現在は使われていないような石垣もあった。
この石垣の席を利用するのに、一年契約とかどこかで書いてた気がするのだが・・・どこで見たんだったかな?

最後に図書館に寄って、気になるような本があるか見てから帰る事にした。するといくつか面白そうな本があり、意外と時間がかかってしまった。豊島石の事を書いた本や、奥村氏のめん食文化の本。特に奥村彪生さんが書いためん食文化の1300年という本はかなり面白く読ませてもらった。そうめんは全国各地で作られていた事や、昔は夏作って夏食べるタイプが主流だったとか、めん好きにはたまらない本であるので、どこかで見つけたら購入してみたい。

そして、最後に一番気になっていた島原の件についての資料もおいてあって、川野正雄氏が「島原移住」という題名で書いていた。
そこにはこう書かれていた。「近頃聞いた事だが、此の高橋家の島原に於ける分家はなお連綿として続き、相当な暮らしを立てており、当主はなんでも長崎市に出て、高等女学校の校長か何かをしているそうであり、また当時譲られた小刀と鶴の画の掛物も保存されているとの事。」
そして本家については、「それに引きかえて、本家たるこの島の高橋家はよほど零落し、名古屋の某会社に勤める若き当主と、島のあばら家に留守を守る老婆二人きりの家族であって、もとより家宝の刀もなければ、鶴の画の掛物もどこへどうなったか分からないそうである。」

この事に関してもっと深く書いている方は居ないかと帰ってから色々探したところ、徳山久夫氏という方がさらに詳しく書いており、島原移住の研究はこの川野氏が昭和12年に発表し、よく知られるようになったのだとか、そして・・・小豆島の高橋家は1938年に絶えているらしい。

徳山氏が小豆島のそうめんは17世紀末くらいから18世紀にかけて盛んになっていったと書いていた。島原移住は17世紀中頃と考えられるので、小豆島ではまだまだそうめんが盛んでは無かったということだ。そして奥村氏の書いていたように全国でそうめんが作られていたのならば、小豆島から島原へそうめんが伝わったという説も無理なような気がする。
そんな事も分からないままそうめん屋の高橋さんを探していたのだから見当違いもはなはだしかった。そもそも高橋家はそうめん屋ではなく庄屋だったのだ・・・・。

明るくておおらかなイメージが持てた小豆島。そうめんに関しても現在天日干ししてるところはあまりない事を考えると環境がとても良いと思う。そういう小豆島の環境がどんどん変わっていきそうな雰囲気がかいま見えたのは少し残念な気がする。

次に来た時にどう変わってしまっているのかも一つの楽しみにしておくことにしよう。



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