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4日目はかなり天気がいい。国民宿舎というホテルは高台にあり、池田港を一望できその広々とした風景が朝のひとときに、絶妙なスパイスをもたらす。そういう気分的な事もありホテルの朝食は非常においしくいただけた。小豆島に来て一番ホッとした時だったかもしれない。 そんな気持ちでのんびりしてしまったのが失敗で、予定していたバスに間に合わなかった。オリーブ公園という所の近くにある郷土資料館に行く予定だったのに・・・・。しかし、次のバスまで1時間も待っていられないので歩いていく事にした。 二時間程あるいてオリーブ土産物屋に到着。途中、そうめん屋作兵衛でそうめんを購入。こちらは販売店舗で食堂もされているようだった。土産物屋で郷土資料館を聞いたが分からないようだったが、近くにオリーブナビという観光案内所があることを聞いたのでそこで聞いてみるしかない。 ここで休憩していると観光客がオリーブ探しをしていて、なんだかなにかがレアーなオリーブの葉っぱがあるらしい。つられて私も見てみたのだが、オリーブはどうも貧相に見えるのであまりいい気分ではなかった。
オリーブ土産からすぐの所にオリーブナビはあった。中の受付の方に郷土資料館が無いかを聞いてみたら、このオリーブナビが昔は資料館だったと言われて、さらにおいてあった資料などは図書館とかに移動した、とも言っていた。これはかなりショックだった。ここでそうめんの歴史や島原に移住した高橋家の事などが分かると思っていたからだ。私はお先が真っ暗になり途方に暮れてしまった。ともかくもナビの方に高橋製麺さんの事を聞いてみのだが、すると・・・、まったく知らないようだった。だが色々調べてくれて、中山地区に高橋製麺さんがあることが分かり、この地区は隠れキリシタンが居た話もあり、そういう関係もあって移住したのでは?とも言っていた。さらにサプライズプレゼントの地図までいただいた。ここの方は本当に親切な人が多い。 これで本日の目的が決定した。せっかくここまで来たのにまた戻ることになってしまうが、高橋さんの場所が分かって行かないわけにはいかない。せめて来た記念にこの近くにあった平井製麺と徳山製麺でそうめんを購入した。 また池田に戻ってきて、病院の近くの喫茶店でハンバーグカレーを食べ、バスに乗り中山まで来た。山の方へ入って行くが道が綺麗だからか奥地に入って行く感覚ではない。 適当なバス停で降りて山側へ入って行く。殿川ダムという大きなダムを横目に見ながら階段を上がって行った。ここにはなみなみと水が溢れていて、今までの水不足の小豆島のイメージとはおもむきが全然違う感じがした。
上がりきった所にあったのがこのキリシタン灯篭。これがなぜキリシタン灯篭というのかが分からないのだが、普通の灯篭とはあきらかに違う。少なくとも灯篭の役割は無さそうだから、昔のアート作品とでもしておこうか。なにかの理由があってそういわれているのだから、その事を説明板で書いてくれるくらいはしてほしいものだ。そうすると色々妄想できて旅のネタにもなったのに。
キリシタン灯篭の近所にあった荒神社と思われるところ。こちらは普通の灯篭で、これと比べるとキリシタン灯篭の異質感がよく分かる。日本人の感覚だとこの左側の灯篭が非常にかっこよく見える。ここからちょっと歩いて高橋製麺さんに到着した。家のピンポンを押したが出てこられなかったので、奥の小屋を見てみると作業中のようだった。思い切って声をかけてみたら高橋さんと思わしき方が応対してくれた。もう一人の人と二人作業中で、忙しそうだったのに気分よく話を聞いてくれた。 高橋家の島原移住問題は知らないようでしたが、高橋の下の名前が分かればどこの人かは分かると言っていた。ただ残念なことに私がそんなに詳しく知らなかったのだ。 今までも感じてきた小豆島の気風なのだが、尋ねてきた人を無下に追い返すのは良しとしないようで、ここのもう少し奥に入った所に高山右近が潜伏した地があると教えてくれたりもした。他にも移住問題とかいろいろとしゃべってくれたのだが、ちょっと訛りがあって聞きとりにくく、理解できたのはその程度だった。 忙しい高橋さんは時々そうめん室に戻りそうめんを伸ばしてくる。今の時期はすぐ乾いてしまうから目が離せないのだとか。そんな時に自分勝手な話に付き合っていただいた高橋さんどうもありがとう! 記念にそうめん買って帰ろうかと思ったけど、今ちょうど在庫がないとの事だった。残念。
高橋さんに別れを告げ湯舟山を目指してみる。途中で畑仕事している男性に声をかけられて、この辺りがそうめん屋が一番多いとか、水質検査がどうとかいっておられた。しかし訛りがきつくなかなか聞き取れなくて会話がちぐはぐになってしまった。さらに進んでいると中畑製麺屋さんがあり、ここでそうめんを購入した。ここの中畑さんは訛りがなくてすごい聞きやすかった。この中山地区は水が綺麗なのでそうめん屋がたくさんあると言っていたが、私が見た本ではこの地区では水車を利用した製粉業が発達していたと書いていた。 風がきつい湯舟山より皇踏山方面を見てみる。段々畑にしたり住宅を建てたりして山の破壊が進んでいるが、斜面のきつい左の山は手つかずだ。この畑もそんなに収穫はないから、そうめん屋がたくさんできたに違いない。 湯舟山縁起によるとここを開いたのも佐々木信胤のようで、ここの水を確保して兵士の渇きを救ったのだそうだ。この隣町の肥土庄は平安時代には荘園としてあったそうだから、ここもかなり古いと思うのだが、佐々木が小豆島に来てから色々な技術をもたらして開発したのかもしれない。
段々畑を降りていくと歌舞伎舞台があった。これも京阪とのつながりの産物らしく、上方役者が居住して指導にあたることなどもしていたそうだ。この歌舞伎がさかんになるのは文化・文政年間(1804〜1830)以降のようで、この頃には塩浜は衰えてきていて、それに代わって醤油屋やそうめん屋がさかんになりだしたみたいだ。これを輸送する廻船業を含めて、金銭的に非常に豊かになったであろうことが、この歌舞伎舞台でもうかがえるような気がする。そして、それが今につながっていて、田舎であるにもかかわらず、どこか都会の風をおびていてよそ者に対する警戒心がまったくないような、そんな気風が醸し出されたのだと感じる。
ホテルに戻り道の駅のようなところでソーラーメンなるものを食べた。ソーメンはラーメンにはなれないと思った。そして例の如く貸し切り状態の大浴場で夕焼けを拝んだ。この海の向こうに赤く太陽が沈んでいく光景がかなり綺麗で、疲れた体を心の方から癒してくれた。そんな詩人のような気持にさせてくれるのが小豆島だと思った。 |