2017年3月 二日目:皇踏山より


二日目の朝、外に出てみると例の如くあの山が見えている。
「今日はあの岩を目指してみるか。」そうつぶやき私は皇踏山へ向かった。
山へ向かう途中、ご主人と散歩中のご婦人が声をかけてきた。
「どこへ行くんか?」朝から歩いている観光客が珍しいのかもしれない。
私は皇踏山を指差し、「あの山に登ってみようと思います。」そう答えた。
「私も何度か登ったことがある。石が多いけどちゃんと道もあるし、反対側にも降りれる。」と、教えてくれた。
これで不安も無くなり堂々と山へ行ける。ご婦人にお礼を言い先へ進む。

今回来て気づいたが、小豆島の女性は活発で明るい方が多いと思う。宮本常一氏も昭和8年に小豆島に来た時に同じように感じたそうだ。
その常一氏が書いていたことだが、小豆島の人は京阪地区に奉公に出ることが多くて、特に女性の下女奉公を「シオフミ」と言い、これをしてない女性は嫁の貰い手が減るのだとか。こういう都市部とのつながりが、島の空気を作り上げているのだろう。

皇踏山に行く途中にあった祠、おそらく荒神様を祀っていると思う。
地図で見たところ、この島には荒神様を祀っているところがたくさんある。一日目に声をかけてきた女性に荒神の事を聞くと、竈の神で台所に祀っていると答えてくれた。荒神さんは餅を三段にするらしい。
しかし、先ほど山の事を教えてくれた女性は、荒神は船で沖へ出たときに拝む神だと言っていた。こちらの神様は荒ぶる神で、竈の神とはまた別物なのであろうか。

昨日散策していることもあって、何も迷うことなく登山口に着いた。その入口に碑があり、何故か「井上一二」という人の詩が載っていた。登山道の案内板があるたびに詩が載っていたので不思議に思っていたが、どうやら「尾崎放哉」という俳句の達人を養っていたらしい。この登山道を整備するお金を出したか、もしくはこの山の持ち主なのかもしれない。
しばらく歩くと地道になってどんどん登っていく、案内板がかなり多く迷うことはない。ここの山は水を含みにくいのか、石の風化が激しく、砂地になってて滑りやすく歩きにくかった。岩は露出していて木々が細くかなり痩せている山だ。
ここを歩いていて思い出したことがある。小豆島の「あずく」とは古代語では崩れるという意味らしい。この脆い山肌はいかにも「崩れる島」、もしくは「崩れてできた島」にふさわしいのではないか?島原では江戸時代に「山裂けて砕け飛び散り島若葉」と、歌われた眉山崩落があったが、「あずく島」もそのような事があったのではないか?
そんなことを考えながら登っているとあっというまに頂上が見えてきた。

「絶景かな、絶景かな。」景色の良さに思わずつぶやいてしまう。
今、立っているのは下から見た時にハゲていた部分だ。この岩の部分が上に行くほど目立っていて、木もあまりないので視界が良すぎて非常に怖かった。
こうやって上から見てみるとよく分かる。狭い地域に建物が密集していて、山の合間も開発され、てっぺんがハゲきっている山もある。小豆島は今開発の真っ最中なのか、山肌が露出するほど工事しているところを何か所か見かけた。そのうちハゲ山ばかりになってしまわなければよいが・・・。人の心配をしていると自分の頭の薄さも気になり、思わず頭頂部に手を当てて確認してしまうのであった。

頂上付近はかなり広い平坦地になっていたが、木が生い茂っているので見晴らしは良くない。
ここ皇踏山は中世の山城があったらしく、土塁跡や曲輪跡などの看板も立っていたが、どこが土塁なのかどう曲輪なのかがよく分からなかった。山城跡の調査はされていて、図書館には調査資料も置いていた。次回は読んでから来てみたいと思う。
平坦地に皇踏山大権現があり、その隣にあった稲荷神社において不思議な光景を見た。そこには今さっきまで人が居たかのように、稲わらと金づち、そして鎌が置かれていた。稲わらを叩いて結っている作業途中に、どこかに出かけてそのままもう戻ってきていないような雰囲気。ひょっとすると「井上一二」その人なのかもしれない。少し神秘的な余韻を味わいながら道を進み、緑に囲まれた平地を歩いて山頂に到着した。

ここが詰の曲輪と言われる場所で、比較的大きい岩石が散乱していた。これがなんだったのか不明だが、このあと通った道にしし垣というものがあり、おそらくそこに使われたものだろうと思う。小豆島は大阪城の石垣にかなり岩を送っているので、ここも探したけどうってつけの岩が無くて捨て置かれた感じにも見える。
この岩群を一足飛びに渡りながら進むとそこが山頂だった。そこからは小豆島の北側を眺める事ができた。漁港があって沖之島が見えた。その漁港は冬のゲタ干しが有名のようなので、次はそこに行ってみようと思う。
結構急な坂道だが降りれないこともなさそうだと足を踏み出してみたのだが、イバラが刺さってしまった。これが結構痛くて降りる気を無くしてしまった・・・。辛い道の事をイバラの道とはよく言ったものだ。刺さった所は汁がつくのか、その夜風呂に入るまで、むず痒かった。
イバラを避けて仕方なく整備道を通っていく。城の遺構の説明板を見ながら進み、東側の峰の展望所で休憩をした。そこの看板にここの説明が書かれていた。
(もとは大戸山とか青門山とか言われていて山城伝説があったが、史料には残っておらず「小豆島肥土庄八幡宮御縁起」や「紀伊國牟婁郡小山氏文書」に、南北朝の祭に備前の国飽浦の城主佐々木信胤が小豆島に拠り、吉野朝廷に呼応した旨が記されているだけだった。昭和52年に調査をして中世の山城廃城跡が明らかになった。)

この山の平坦地にはこういった石塁がずっと続いてた。もう少し大きめの岩で作っているところもあり、割った形をそのまま利用しているようにも見えた。
この石塁は「しし垣」と言い、小豆島に限らず日本の各地で見られたものらしい。少し興味があったのでしし垣について「人づくり風土記香川編・農山漁村文化協会」をもとに少し勉強してみた。

何のために作られたかについてはいくつか説があり、猪鹿から農作物を守る為・牧場の柵・古戦場の城の砦・村と村との境界線・神が鎮まる磐境、この5つがあげられていて、猪から農作物を守るための理由が書かれていた。
猪が増えた(もしくは海を泳いで渡って来た)理由として、製塩の為に山の樹木を多く伐採したので、猪の食料が減り里へ降りてきた。(製塩については天正年間(1573-92)に赤穂の塩浜師が伝えたと言われていて、宝暦年間(1751-64)に最盛期を迎えた。)
もうひとつの理由として、小豆島は雨が少なく水不足で飢饉が多く、食料を確保するためにサツマイモを栽培し、そのサツマイモが猪の好物だったのでたくさん寄ってきた。(宝暦のはじめ(1751年ごろ)薩摩の遍路がサツマイモの栽培法を教えて、小豆島の土壌によく適合した。)
その悩まされた猪だが、明治8年(1875年)コレラで全滅してしまった。宮本常一氏が来た昭和8年には、猿や鹿が多く猪はいなかったと書いていた。しかし、最近また数十頭確認されているようだ。
こういう理由により、しし垣が江戸中期ごろから作られはじめて、寛政2年(1790年)に全島一周する長さ30里(約120キロ)が完成した。
一方、星ヶ城や皇踏山城のものは城の石垣と言われているようなのだが、皇踏山の説明板には、城の石垣とは書かず石塁としており、しし垣は類似したものと書いていた。はっきりとは分からないことが良くわかる。

私が見て思ったのは、山頂にあったので猪除けにはならない、幻の山城の石垣としては長すぎる、どこへ向けて守っているのか分からない、と思ったので、この皇踏山の石塁は村の境界が妥当ではないかと思う。とくに塩浜による樹木の採取が盛んに行われていたようなので、取ってもいい境界線を決めておかなければ争いが絶えなかったのでは?と、感じた。

東側の峰を過ぎると石塁が道なりの作られており、ウバメガシと言う常緑樹の林を通る。
だんだんに尾根沿いになっていき、その狭い幅を歩いていくのだが、木々があるため視界が悪く、先ほどの見晴らしの良い所みたいに怖さは感じない。そして所々に巨石があり、男性器を形どった松茸岩なる巨岩もあった。自然にできてたらびっくりするが、おそらくは誰かが作ったと思う。
見晴らしの良い箇所もあり、肥土山方面が眺めれるのだが、岩のごつごつ感と急坂がまた恐怖を誘った。
景色を堪能しながら歩きとても気分が良い。これだけ整えられた道で人にまったく出会わないのも珍しい。二手に分かれる道を滝宮へは降りずに、笠ヶ滝不動へ向かった。そこはへんろ道と言われているようで、地蔵様が道にたくさん並んでいた。

笠ヶ滝不動付近から今来た道を振り返ってみた。奥の一番高い所が皇踏山で、この山の線沿いにずっと歩いてきた。
ここ笠ヶ滝寺は真言宗の行場らしく、登山道や遊ぶ場所では無いとの注意書きがしてあり、カメラは没収するとも書かれていた。何があったのかは分からないが、それなら柵でもしておけばいいのにと思う。ともかく、ここで気分を害されたのでさっさと降りてしまった。
下に降り腹立たしい気持ちを落ち着かせるべく自販機で飲み物を買っていると、そのお店?の女性が出てきてミカンをくれた。腹が減りすぎていただけにとにかくミカンをガッつ食いする。
「ふぅー、生き返った。小豆島の方々はなんと良い人ばかりなのだ。」人間は都合のいい生き物で、さっきの真言宗の事は無かった事になってしまった。
生き返ったので北側の海を目指す。でかい仏像を越えて行こうと思っていたのだが、山には柵がしてあって入れなかった。私は寺に不信感を抱きつつ、遠回りをして車道を通って行った。

でかい仏像を越えるとそこが峠の頂上であり、そこからは海へ降りていく道だった。
その峠にこちらのうどん屋があった。もう2時になっていて、ミカンくらいでは腹が満たされるはずが無かった。私は喜んでこのお店の扉を開けた。
讃岐うどんかと思っていたが、柔らかい感じのうどんだった。あまり特徴的ではないがホッとする味で、満腹になるまで食べられた。これでこの後も歩く力が出てきた。
坂道を一気に下り海へ出てきた。そして振り返って山を見てみるが、土庄側から見てきた特徴的な形ではなく、山の線がなだらかにダラダラと続いているだけだった。こちらからは山を見ていてもつまらないので、海をみながら海岸線を西へ歩いて行った。

こちらの風景はたまたま目に付いたもので、なぜこんなに削っているのかと思いよく見てみたらゴミ捨て場だった。隣の島の豊島では産業廃棄物問題があったので、ここではゴミの意識が高いのかもしれない。
豊島問題はネットで少し見たが、調べると色々な疑問の生まれてくる問題なので、時間があるときに考え、また機会があれば豊島にも渡ってみたいと思う。
昔はゴミはポイしておけば、おおよそのものは勝手に風化したのだろうが、今は新しい科学的な毒素があったり、あまりにも大量すぎるので、今までの感覚を変えていかなければならないのだろう。
こうやってゴミが処理されているところを見るだけでも気持ちは変わってくるかもしれない。

このあと少し進むと沖ノ島が見えてきた。琵琶湖に浮かぶ沖島と形がとても似ていて、平地になってる港の部分だけに住宅が密集していた。漁業が多いのかは分からないが、島のさらに島に住んでいた方が便利な事もあるのだろう。
そしてゲタ干しの場所についたのだが、今はまったく干していなくて非常に残念だった。

このゲタ干しで有名な小江漁港付近から集落になっていて、このまま淵崎の方まで続くようだ。集落の中の道を通りそうめん屋があるか探しながら進んだ。途中で車に乗っていた男性から声をかけられ、「乗せたろうか?」と言われたものの、「そうめん屋を探しているので・・・、」と断った。「そうめんならスーパーで売ってるで?」と教えてくれたのだが、愛想笑いをかえすしかなかった。
小麦粉の袋を見つけた家があったものの、玄関が分からず諦めたり、店舗や工場っぽいそうめん屋は閉まっていたりで、今日は一軒もそうめん屋に立ち寄ることはできなかった。「残念だが明日に期待しよう。」そう思い足を速めて土庄町へと帰っていった。
スーパーマルヨシで翌日の朝飯を買い、向かいにあったお好み焼き屋で晩御飯を食べた。山芋と卵を一杯入れて、大阪と広島の良い所を取り入れたお好み焼きらしい。ソースが少し濃かったがふっくらとしてとても美味しかった。こんなところでうまいお好み焼きを食べるとは・・・。
腹を満たし昨日と同じホテルに帰り、あとは翌日の事を考えながら眠りについた。

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たまたま見つけた戦前の絵葉書に小豆島の松茸岩が載っていた。(寒霞渓のものだが)


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