2017年6月 3日目:坂越港は赤穂の核


三日目の朝は8時オープンの喫茶店でのんびりとモーニングで腹を満たした後、赤穂市の東部に位置する坂越に出発します。坂越はその名の通り赤穂の中心街から見てひと山越えたところにある港町です。歩いて千種川を渡り、山と山の合間にある細い谷道を歩いて坂越の浦に行きたかったので、バスで行くのは山の手前にあるJR坂越駅までにしました。駅の裏手の山は昨日登った鷹雄台山に繋がっている模様です。

※ 画像をクリックするとより大きな地図がご覧頂けます。 坂越橋から上流を眺めます。遠くに見える旧坂越橋付近の一帯より右手の「山あい」にこれから入って行きます。この山あいは「坂越大道」と言う瀬戸内海と千種川を結ぶ主要な道路だったらしく、当時の廻船業を営んでいた豪商屋敷が今も点在しています。
千種川の高瀬発着場跡から少し進んだところにあった「木戸門跡」。関所ですね。同じ赤穂藩の領地内にあるのに何故設けているのかといぶかしく思ったところ、廻船業で栄えていたこの細長い町並みを外部から守るために、夜間は門を閉め、見張りする門番人を置いていたという事です。よほどの裕福な家が多かった事を伺わせます。
風格のある家々の並ぶ小路、これもひとえに赤穂の塩のお陰だと言えそうです。千種川の下流域の塩田から坂越浦まで持って来て、廻船業者が全国にどんどん輸出していました。赤穂では入浜式塩田が採用されていたことからも想像できるように遠浅の砂浜であり、港には向いていなかったと思われます。
しかし西欧型の帝国主義国家を目指す明治時代に入ると財源確保のために政府が製塩利権を一手に握るようになり、塩を運んでいた廻船業の船主たちはどんどん廃業していったのだそうです。
木戸門跡を過ぎると大きい屋敷が立ち並ぶメインストリートになります。かつては屋敷だったものを再利用して「街なみ館」や「郷土館」など色々やっていたのですが、ほぼ火曜日が休館日でした。残念でした。
どこも休館、閉店だったので…坂越大道に面した立派な寺院があったのをふらっと立ち入ることにします。「妙道寺」と言うそのお寺は、漁師の網に引っかかって海から引き上げられた阿弥陀仏像を祀っており、貝のついた跡が今でも残っているという言い伝えがあるそうです。
寺院よりも山門の彫刻が気になって眺めていましたら、夫婦連れが「立派ですね」と声をかけて来ました。裕福な町なだけに(?)本当に立派な彫り物で、私は3枚目の写真の彫刻がとても気に入りました。表情と足の浮き立つ感じがとてもいいなぁと。「天衣無縫」とそんな感じしません? 坂越大道は車も通りやすそうな道幅に石畳を敷き詰め、真っ白い壁の家が両脇に続く300メートル程度の通りでした。中でもひときわ大きく目立つのが「奥藤酒造」です。引き上げた阿弥陀仏像を妙道寺に奉納した人物がこの名前でありましたし、また、先ほどの「町なみ館」は奥藤という人が船主を廃し銀行を営んだ跡だと言います。「奥藤」は船主たちの中でも大元締(大網元?)だった家筋かと想像させられます。こんにち、奥藤酒造では郷土品を無料開示しており、博物館顔負けの量の民具や仕事用具が並んでいます。特に船乗りの民具と酒造に関わる民具は興味深かったです。
坂越大道を突き当たりまで歩いて行くと、眼前に播磨灘が広がります。護岸工事を施した坂越湾は、遊歩道として親しまれているようです。そばの広場には北前船や灯台のオブジェが飾ってありましたので恐らく以前はここがかつて港町として賑わっていた一帯なのでしょう。写真の正面に見える山々の向こう側には千種川とそれによって作られた赤穂港になります。
遊歩道沿いにあった旧坂越浦会所。かつては陣屋として、それから村の寄合い所(?)として使われていましたが、今は博物館になっています。残念ながらこれも火曜日休館。北前船の展示が見たかったです。 手が届きそうな距離に浮かぶのは秦河勝の墓所だと伝承される「生島」です。神域として古代より、年に1回のお祭り以外は立ち入ることのできない「ご禁足地」としていたこの島は、原始の森林がよく残っていて国の天然指定にもされています。
秦氏と言えば滋賀・奈良・京都でもよく耳にする渡来系氏族で、一度は秦氏に関するしっかりした書物を読んでみたいと思っていたのでした。秦河勝は聖徳太子の右腕として活躍しますが、太子没後、蘇我氏に追討されここ坂越の地まで逃げて来たとか。 右手の盛り上がった丘に、秦河勝の棺(円墳)が納められているのだそうです。

弓なりの江に沿って歩いて行くと、牡蠣の養殖道具置き場がありました。坂越は広島・岡山に押されてしまっていて、まずスーパーでは見たことがないと言う人が多いと思いますが有名な牡蠣の産地で、全国TOP5には入ると思います…多分。 それと入り江で、少し不思議な地蔵堂がありまして、岩崎家というところの船が遥か遠くの海洋で難破してしまったので、それまで奉っていたお地蔵を地下に埋めて新たにお地蔵を建てたと。身代わり地蔵の一種で、悪縁(事故が起きてしまったという不運)を一挙にお地蔵さんに背負って頂いてもう二度と発現しないよう地下に埋める、というようなものでしょうか。

とにかく腹が減っていたので海の駅にある「くいどうらく」へ入店を急ぎます。自分で炭火焼きしながら食事ができるタイプの食堂で、貝盛り合わせに刺身、あと店員一押しの「レディーセット」を注文しました。おいしかったけれど、炭火焼きを楽しみたいならレディーセットじゃないほうが良かったかも。ここはがっつりひたすら海鮮一点物ですね。
海の駅は、牡蠣の加工工場や直売所が立ち並んでいました。冬は食い放題もやっているとのことで心密かにまた来たいと思っております。そう言えば朝入った喫茶店でパート募集のポスターがありました。「牡蠣剥きパート募集、勤務地:坂越」。 メニューにあった「のれそれ」というのがどうしても気になり店員に聞いてみると、なんと「穴子の稚魚」だということでした。正体がわかると今度は食べてみたくてしようがなくなります。…で注文しました。
べっとりした指に絡みつく感触がちょっと苦手でした。食べてみるとやっぱり好きな食感ではありません。無理やり炭火で焼いて食べてみたところやっと食べれるものになりました。そう言えば、わたしどんなに鮮度良かろうが「生しらうお」が好きじゃないんですよね。好きな人は「のれそれ」も好きかもしれません。 せっかく歩いてここまで来たからと思い、土産屋に寄って物色してみましたら海苔が気になりまして。「兵庫のり」と書いてあったので
「兵庫のどこなんですか?」と店員に聞いたのですが、
やる気のなさそうな感じで
「あ〜何も書いてませんねー」
ちなにみこの海苔は後からホームページで確認したところ、コンビニのおにぎり用海苔として多く使われる海苔で、業務用海苔が売りのようでした。食べてみると、うん、確かにあの味がします。めっちゃ甘い。
一杯になったお腹を抱えつつ来た道を戻り、港町なのに全く海を感じさせない住宅街に入り込みます。家々の裏の山に神社、河勝公が御祭神の大避神社があります。それが変わった神社で、鳥居があって山門があって本殿があります。また、左右に狛犬が居て左大臣右大臣がいて、仁王が立っています。この混沌とした様相は神仏習合の名残なのだそうです。
さて、本殿に向かいます。本殿の左右には渡り廊下で結ぶ「絵馬堂」が建っており、額縁に納めた芸術絵画だと言っていいくらい立派な絵馬を並べていてまさに美術館のごとくで見ごたえがあります。海を臨む神社らしく自分の持ち船を描いたであろう絵馬、縁起物として描いたのだろうか相撲を取り合う図に龍と虎が睨み合う図の絵馬が見えますが、圧倒的に多いのが雅楽図です。河勝公を雅楽の祖とする伝承があるからなのでしょう。1つ1つの絵図をじっくりと観察していく絵解きも楽しそうですね。 社務所のお掃除している初老の男性に声をかけてみました。
「本殿にかかっている幕の家紋は秦の家紋なんですか?」
「違う、神社の家紋」
「山門の長槍みたいなのは何ですか?」
「あれは国旗をつけるやつや」
テンポよく色々教えてくれたので、後から考えたらもっと聞けたかもしれません。普段知りたいと思っていた諸々のものも、いざ聞くとなると記憶の彼方に飛んでいってしまいます。
さて絵馬を堪能したのち、大避神社の後ろの山、茶臼山に登るべくマップを確認してみます。
※ 画像をクリックするとより大きな地図がご覧頂けます。 妙見寺を通り過ぎ、ほどなくして茶臼山城跡に到着します。どこまで事実か判らないけれど、山名氏がここに城を作ったようです。城跡らしきものは見えなかったし、場所としても城を構えるほどでもなさそうでしたので、砦のようなものがあって港や川を見張っていたのでしょう。確かにここからの港はよく見渡せます。

坂越湾(播磨灘)と生島、生島の奥に見える半島を越えると相生湾になります。 さらに宝珠山へ登って行きます。途中、「和田備後守一族の墓」があり、足利尊氏に抵抗してここで一族5名が自刃したらしいです。和田と言ったら鎌倉時代の北条に抵抗した氏族?備後守の和田と関係があるかどうかすらも判らないのでスルーいたします。
宝珠山頂上より内陸側を眺めてみると尼子氏が城を築いたと言われる尼子山が正面に見えます。山陰の大名2人の名前がここに見えるとはなにか諍いでもあったのでしょうか。 景色を充分堪能したのち、観光案内所でもらったマップを頼りに「ここで夜ご飯を済ませよう」と目星をつけた我々は下山しました。網焼きの店で楽しみにしていたのですが、ここも残念ながら火曜日はお休み!坂越は火曜日がブラックデーです、ご注意を。
赤穂駅に戻るべく海を眺めながらトボトボと歩いて帰って行きます。その途中、「小倉御前のお墓」があり「後亀山の皇子がここに避難していたが、敗北を知ると海に身投げした」と説明がありました。南朝の皇子がこんなところに・・と思ったのですが、しかし興味深いことに、もう1つの伝承がありそれがこちらのサイトで紹介されています。すなわち小倉宮を殺害した赤松氏が罪悪感により建てた供養塔だというものです。看板では「小倉御前」とし、サイトを始めとする伝承では「宮=御前」とし同一人物としているのが気になるのです。御前は女性につけるものだと思っていましたが…違いますかね??
夜ご飯は、播州赤穂駅近辺の居酒屋「よしとよ」にしました。穴子の釜飯、ハモの天麩羅、もずく等々、海の幸を味わわせて頂きました。「忠臣蔵」という名前の日本酒も1杯だけ。飲みやすいですが、もう一癖欲しいところです。さて、心配していた天候も本日は雨が降ることなく、閉店だらけでしたが余すところなく坂越というものを楽しめたのではないかと思っております。
会社帰りのサラリーマンと播州赤穂駅。


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