本日で十津川ともお別れです。昼のバスまで十津川を味わってから帰ります。 朝ごはんを食べていたらこちらのご主人の姿が見えたので、平成の水害の時どんな感じだったか聞いてみました。 その水害の時は台風で宿泊客がみんなキャンセルしたから、少し離れたとこに住んでいる子供のところに行ったそうだ。すると道が通れなくなっていて2週間帰ることができなかったらしい。十津川役場の駐車場の土台も流されたとも言っていた。やはり想像以上にすごかったようだ。明治の水害では移住を決断しなければいけない人達がでましたが、さすがに今の時代ではそこまではならなかったようですね。 ホテルを出る時、昨日色々教えてくれたお兄さんとすれ違った。帰りのバスが立往生してもいいように食料を買い込んでおけ、とのアドバイスを頂いた。そんな事も経験したのだろうか?他人の不安を煽りながらその方はとても楽しそうにしゃべっていた。 ここから2キロ登った所の武蔵地区にある楠と佐久間の墓に向かいます。十津川村役場からちょうど東の山の上といったところでしょうか。 楠正勝は楠正成の孫でここ十津川の武蔵地区で十年余を過ごし、再起を図っていたが病気で亡くなり、佐久間信盛は織田信長に高野山に追放されたが、高野山すら追放され、ここ武蔵の里で療養していた。そして、1582年ちょうど本能寺の変の年に湯温地温泉で湯治中に亡くなったそうな。微妙に知られていない人達ですが、その時代には隠れるのに最適の土地であり、まさしく陸の孤島だったという事が分かります。 この小学校の裏に墓場があり、そこに楠とか佐久間の墓があり雪にうずもれていました。今でこそ村役場から1時間も歩けば来れるところですが、昔の主要道の西熊野街道からは外れており、やはり隠れ住んでいたといえるかもしれません。幕末の時期、田中光顕という人がここ十津川に逃れて来たのですが、西熊野街道では目立つらしく神湯温泉のある出谷の竜泉寺などに泊まったりもしたそうだ。今だとここに隠れ住むとかえって目立ちそうですね。 この付近をウロウロとしていると、雪かきをしていたお兄さんに「ここに泊まったのか?」と聞かれました。なんの事か分からなかったので役場の辺から来たと答えました。後で気づいたが、ここは「大森の郷」という古民家ホテルを外人に設計させ運営しているようなのです。それがまた高そうなホテルで思わずびっくりしてしまった。しかし十津川の雰囲気を少しでも味わうにはこの地区で泊まってみるのが一番いいのかもしれないなあ。 山々の中でここだけが少し開けてる感じに見えますね。ここに来るまで舗装道がありましたが、それが無かったとしたらここまで上がってくる人もおらず、まさしく落人村であったかもしれないなあと感傷に浸っていました。 文化の途切れ目を見るようで少し悲しい気持になりましたが、雪のヘルメットをかぶった元気な白菜を見ると、そんなことはどうでもいいような気もしてきます。 最後に十津川神社にお参りをして、資料館で西熊野街道の事を少々聞いた。次回来た時には是非通ってみたいと思うのです。なにせその道を幕末の時は多くの人たちが往来してたわけなので、どういうところかの雰囲気だけでも分かればいいなと。 そして昼過ぎ出発のバスに乗り込みびっくり仰天。またもや十津川博士カップルが乗っていたのだ!!相変わらずしゃべりまくっていてすごいなあと感心してしまった。 昨日の温泉でお兄さんがここの八木ー新宮線が奈良交通では花形運転手と言っていたので、どんな道をどんな風に通るのかに注目して乗っていたら、かなり楽しめました。路線バスだから新しく大きい道ではなく、古い細い道を通っていくのです。他の車はほとんど通りませんでしたが、微妙に危険な所もギリギリ曲がっていたりした。そして一度十津川行きの路線バスとすれ違いましたが、そこには大量の人が乗っており、私たちはちょうど空いている時で良かったなあと思ったのでした。 最後に八木に戻って喫茶店で休憩したのですが、そこでも十津川博士カップルが居た!!なんとまあ奇遇な事もあるものだ・・・・。また十津川に行って見かけたら衝撃的だが、その時は挨拶してみよう。 |