2018年10月 名古屋散歩・3日目


最終日は今回の名古屋観光のきっかけの1つである桶狭間に向かいます。名古屋に来る前に「歴史探索入門・小和田哲男著」という本を読みました。その中で今川義元研究家である小和田氏が現地を歩く事で分かる事がある、と書いていて、1つの例として桶狭間をとりあげていました。それを見て「じゃあ一度桶狭間を歩いてみようか」と相成ったわけであります。

桶狭間古戦場は、名古屋市緑区と豊明市の二か所に古戦場跡があります。今回は桶狭間山がある名古屋市緑区の桶狭間を目指すことにしました。
朝食は桶狭間最寄り駅の有松駅周辺で予定していたのですが、すぐには見つかりませんでした。昨日のようにエサを食べることは嫌だったので、頑張って探します。

そんな中見つかったお店が一軒ありました。「ユーラシア食堂さらび」という店です。朝のモーニングサービスなどはやってなくて、食べるものでできるのはピロキシとチャーシューマンだと言われ、それを2つづつ注文。コーヒーとロシアンティーだったか?で優雅な朝のひと時を過ごしました。ピロキシのモチっとした食感が好みでとても美味しかったです。
昨日は悔し涙を流しつつ掻きこんだ食事だったのに、本日はコーヒーをすすりながら、生きている喜びをピロキシごと噛みしめていただいたのでした。
こちらのユーラシア食堂は有松の東海道沿いの町並みの中にあって、観光マップにはこの付近の建物群の事が色々書かれています。しかし今回は時間が無いのでスルーして桶狭間を目指します。

●桶狭間合戦地図※クリック拡大

その有松の東海道を東へと進み、大将ヶ根という意味深な地名の交差点を南へ曲がり坂道を上がっていく。ここからが「現地を歩くことで分かる」というものを実感いたしました。名古屋のイメージといえば一面が平野であったので、山があったとしても低いだろうという先入観があったのです。低いのは低いのですがイメージが一新されるような登り坂をどんどんと上がって行き、信長が桶狭間の時に隠れたといわれる釜ケ谷へとやってまいりました。
この写真の左手には大学があってその中に信長が駆け上がった斜面があるといいます。奥の森の部分も入って行けるかと思っていたのですが柵があったので入れませんでした。一度大学内に入ってからでないとだめかもしれません。
国土地理院マップによると、この釜ケ谷付近の標高が40m前後で、駅付近は20m程度です。たった20m程ですが意外と急に感じました。そして、ここから東側と南側に桶狭間古戦場跡があり、共に目と鼻の先に存在しています。これだけ近くてはすぐ気づかれると思うので、山を隔てている分南側へ攻めたと考えるのが妥当かなと感じました。

今回は南側の桶狭間へと向かいますが、ここからは全体が山のような台地のようなところになっていて、現状では分かりませんが尾根が東西に走っているように思えました。その為なのか南北に歩いていると起伏がところどころにあるように感じます。


こちらの写真は大学の南側を流れている「愛知用水」。トンネルがあって柵がしてあるので頑丈な道だなと思って見に行ったら川でした。この川は右(東)から左(西)へと流れていくのですが、見た目の通り少し登っていくのです。わざわざ用水路を作っているのに変だと思いますが、流れすぎないようにする配慮なのかもしれません。
ここより少し東に位置する西三河地区の碧海台地という所にも「明治用水」があります。源流である信濃の山を買い取り、栄養のある水を農業用水にするという遠大な用水路なのですが、こちらの「愛知用水」も地図を見てる限りだとかなり山の方からきています。おそらく「明治用水」を参考にして作ったものと思われ、地形的にも似ているはずです。さらに碧海台地では排水も悪く悪水路なるものも作っておりました。この有松周辺にも探せばあるかもしれません。

用水路は地蔵池という池につながっていて、付近には七ツ塚という塚があります。説明板よりの抜粋しますと「織田信長は今川義元を討ち取った後、全軍を釜ケ谷に集めて勝鬨をあげ、村人に命じて山裾に沿って等間隔に7つ穴を一列に掘らせて、大勢の戦死者を埋葬させた。そのうち2つが原形を残していたが、平成元年の区画整理で1つだけ残すことになった。」というようなことです。
地蔵池付近に塚が残っていたということは、ここが山裾であったという事になります。しかし、先ほどの釜ケ谷より高い位置にある事を思えば、記録が少し違っているような気がします。

さらに南の桶狭間山へと向かいます。この写真のように2、3箇所小さな起伏がありました。山で考えると一度谷に降りている感じかと思います。コンクリートと住宅が立ち並び当時の風景を感じるよすがはありませんが、この起伏だけが信長の気持を表してくれる唯一のものかもしれません。

起伏を越えて到着した写真の住宅街が桶狭間山となっており、ここに看板が建っていて説明が書かれていました。
しかし、小和田氏が桶狭間に来た当時、この付近の人達に桶狭間山はないかと聞きまくったらしいのですが、お年寄りの方ですら御存知なかったらしいのです。小和田氏が来たところがここかどうかは分かりませんが、その時までは誰も知らなかった桶狭間山が、今では「ここだ」と決められてしまってます。桶狭間山が決められた経緯が分かればもっと面白いと思うので、そのことも説明看板に書いてほしいと思います。

桶狭間山は昔、今よりも8m程高かったそうですが、今でも住宅街を見下ろして十分高いです。脳内から住宅を消去してしまえば台地に囲まれた窪地がある事が分かると思います。その窪地の部分が桶狭間公園となっております。
桶狭間公園は綺麗に整備されていて桶狭間合戦の略図が公園内で表現されていました。公園略図に関しては、桶狭間初心者だからなのかいまいちよく分からなかったのですが、アイデアは良いと思うのでもう少し工夫していただけたらもっと良くなるのではなかろうかという気がします。個人的な目線ですが、土地の起伏と死角の有無などが見れると分かりやすいのではないかと思いました。
この公園の場所は、鳴海方面へ向かう重要地点だったとか、1816年の古戦場碑、1933年の古戦場碑などがあったと説明看板に書かれていました。隣の長福寺でも今川義元像が安置されており、昔からの伝説地であったことがうかがわれます。

公園、瀬名陣地跡、長福寺、戦評の松を周り、神明神社へとまいりました。長福寺ではボランティアガイドの人が説明をしていて、長福寺が綺麗になったのは最近、のような話をしていました。近頃、文化財といわれるようなものがどんどんと新しくなっています。すべて綺麗にしてしまうよりもツギハギ修理のような形のほうが美しいと私は感じます。

神明神社の神楽が少し珍しい。境内の神楽の奥に拝殿があり、その中にもう1つ神楽があるのです。対面しながら祭りをするのだと思いますが、境内の広さからいってもかなりの人が集まるのでしょう。
こちらの神社の由来書によると、南朝の落ち武者達が作ったとされているそうです。ここで北朝方の将軍に近い血筋の今川が落ち武者になってしまったのだから面白いものです。

昼食は桶狭間公園のそばの喫茶店チェルシーにて頂きました。名古屋について2度程エサを食べさせられたので警戒していたのですが、杞憂だったようです。

注文後に揚げてるのでサクサクしたおいしいトンカツでした。甘い味噌カツとさっぱりとしたみぞれトンカツの二種類しかランチが無かったと思いますがそれで十分です。

腹を満たして戦の準備を万端にし、新たな敵の井伊軍を巻山で血祭りに挙げに行きました。巻山は織田軍に取り囲まれたので巻山という名前がついたと説明板に書かれていました。つまり、今川軍が敗退した後、今川勢力が退却する時間を稼ぐために井伊はここで踏ん張ったのだということですね。
巻山から北へ坂道を上がっていくと、写真のようなさらなる急坂が待ち受けていて、そこを登り切ると今川勢の松井隊が陣を敷いていた高根山になります。


頂上には神社があって見晴らしがとても良いところでした。しかし、標高自体は50mとなっており、削られる前の桶狭間山よりは低いのです。
ここで織田軍の佐々・千秋隊を撃破したそうですが、その間に本隊の今川義元が討ち取られることになろうとは思ってもみなかったことでしょう。

高根山からは名古屋のビル群もよく見えます。ここに陣を敷いていた松井隊は何故信長軍を見落としたのか、それが非常に気がかりであります。いくら佐々隊に気をとられていたとしても見張りまで持ち場を離れることはないと思われるだけに、信長軍の隠密性には舌をまくばかりです。

こちらの高根山で今回の観光は終わりとなり、最後に観光案内所に寄ってみました。愛知用水や小和田氏を知っているのがさすが地元民だと感じたのですが、碧南焼きそばの事は分からなかったようです。これが尾張と三河の隔たりなのかもしれません。

特急電車の待ち時間に土産物を買いに行きましたが、名古屋駅近辺のウマいういろう屋は閉まっていたのでういろうは諦めて駅弁を買って帰りました。

「海女の玉手箱弁当」(綺麗すぎた海女で有名)と「松浦の味噌カツ弁当」(カクキュー八丁味噌100%)です。両方ともとてもおいしかったけど、お値段もお高かった。でもエサを食べるよりは全然いいと思いました。

小和田氏の本では桶狭間山に居た今川軍を織田軍が強襲し、今川軍が離散し大高城へ逃げた兵と沓掛城へ逃げた兵に別れ、古戦場跡が2つになったのでは、という無難な意見が書かれていました。
確かに古戦場が2つある理由はその通りかもしれませんが、織田がなぜせせこましい松井に見つからずに攻めれたのかが気になります。桶狭間の合戦の詳細を全く知らないのですが、布陣図を見たのとブラブラっと歩いた感覚では、2千人も居て気づかれないはずがないと思いました。もっと少ない人数で攻めたか、または義元を裏切った者がいたか、何か理由はあったと思います。
信長といえば不審な事もあります。武田や上杉も織田を攻めようとしている時に急死しているのです。そう考えるとすごく不思議な人物であります。

不思議な事といえば、今回の観光で少し気になった事がありました。桶狭間近辺の看板を見ていると、「有松桶狭間観光振興協議会、桶狭間古戦場保存会、名古屋市教育委員会、梶野渡」と複数の方が看板を建てておるのです。教育委員会か観光協議会が建ててればそれでいいかとも思うのですが、色々と思惑の違いなどがあるのかもしれません。特に個人名で建てている方は、河内飛鳥の三木さんのような雰囲気が感じられます。そのうち桶狭間の本などでお名前を拝見することになるかもしれません。

今回の名古屋散歩で気づかされる事が多々あったように感じます。文字の無い歴史、尾張と三河の文化、桶狭間の地形などであります。アンデスに関しては現地に行ったわけではないのですが、文物によって感じる事ができたのかなと思います。
名古屋はこれからも時々訪れる事があると思うので、考えた事、感じた事などを書いていきたいと思います。長々と散歩にお付き合いいただきありがとうございました。



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