2018年10月 名古屋散歩・2日目


2日目は西尾市の岩瀬本祭りに行くために朝早くホテルを出発。西尾市まで1時間ほどかかるので名古屋駅構内で食事処を探します。そして吉野家という人間用エサ店に入店し、外国人従業員からエサを提供されました。こういう所にくると自分たちがこの社会に飼われている犬だということを思い知らされ、宗春公の威徳はすでに滅んでしまったのだという事が感じとれます。
そんな牛丼というエサに、頬を伝い零れ落ちる悔し涙というスパイスをふりかけ、一心不乱に食らった。ただただ、犬のように。


私たちが涙に明け暮れる日々を過ごす間も鉄道は止まることなく未来へと進み、西尾岩瀬文庫へと到着いたしました。
本祭り開店10分前にもかかわらず、すでに人が集まっているのを見ると、西三河地区では家康の影響なのか学問を貴しとする気風があるのかもしれません。
岩瀬文庫は西尾出身の岩瀬さんが作った私図書館であります。現在は西尾市立になっており、岩瀬さんが集めた古文書などを使った展示をしています。私たちも一度、飢饉の展示を見に来た事があり、飢饉の時どうするかを書いた古文書が色々と展示されておりました。食べれる野草を載せてたり、土を煮た土粥の作り方であったりと、当時の感覚を少し感じることができ楽しめました。

そんな伝統の岩瀬文庫での古本市は、雨予報のせいか図書館の中を使っての販売でした。廊下が狭かったので通りにくかったですが、それも人がたくさん来ている証拠ですね。


様々な本が置かれている中、目に付いたのは古い漫画や三河の郷土史でした。そしてその郷土史を漁る人がたくさんいるのを見て、三河の郷土史家達の活力を垣間見ました。私が見てもよく分からない地名で、幡豆や知多、足助などマイナーな郷土史が揃っており、何故かメジャーであるはずの尾張名古屋の郷土史は全然ありませんでした。
ひょっとすると三河と尾張って仲が悪いのでしょうか?考えてみれば、熟女キャバクラに群がる尾張と、郷土史に群がる三河では少しタイプが違うような気もします。

本祭りでは、「無料本配布」や「紙芝居」、「旧書庫雑誌拝見」に「崩し字を読む」など、すべて回れそうにないほどの行事を開催しておりました。
その中で一番興味があった「崩し字を読む」に参加してみました。時間指定があったので、その間に出店で焼きそばとお好み焼きを食べ、エサじゃないことに生きている喜びを感じ、「旧書庫の雑誌」に書かれていたギョウチュウの記事(昔の人の腸に寄生していた虫。多い人は30匹くらいいたらしい)を見て涙を流した。喜怒哀楽という人生のテーマを短時間で得ることができた私たちは、意気揚々と崩し字を読みに行きました。

崩し字のテーマとして取り上げられていたのが写真の天竹神社の由来記であります。「日本後紀」に記された綿の由来を、この付近の寺津八幡の神主であった渡辺政香という人物が崩し字で書き残していたのです。
由来記を要約しますと、「桓武天皇の時代に三河の国へ小舟で漂着した人物がおりました。その人は言葉が通じないにもかかわらず、みずからを天竺人といい、布で体を覆い袴は付けず、肩には袈裟のような紺の布を掛けていました。その天竺人が持っていたのが綿の実だという。」と、あります。
このような事を崩し字で読んだのですが非常に難しかったです。記号が羅列されているようにしか見えず、元の漢字が分かったとしても無理やりすぎるようにしか見えません。なぜこんな字が流行ったかとても不思議であります。

イベントにも参加し、古本もたくさん購入し大満足で帰途へつきました。岩瀬文庫から駅まで20分程歩き、本の重みで疲れた体を癒すため喫茶店を探します。
しかし、これが難題でありました。ドーナツ屋はハロウィーン連中に貸し切り状態にされ、アピタのバックスもハロウィーン連中に貸し切り状態にされ、私たちに居場所はありませんでした。
流浪する私たちを救ってくださったのが「ハッチポッチ」という変な名前の喫茶店でした。ここだけが唯一ハロウィーンの魔の手を遁れていたのです。でかいかき氷とカフェオレで息を吹き返し、古本市の感想やらを話し合います。最終的にいきつく先はベートーベンだったのですが・・・・。

名古屋駅に戻り駅付近のビル内にあった宮きしめんで夜ご飯にしました。少し前に金山で宮きしめんを食べておいしかったので、名古屋駅近辺でもうまいやもしれぬと思ったのが大失敗でした。やはりビルでは調理に向いていないのか、ふにゃふにゃの麺にパサパサのトンカツでした。残念。


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