2019年02月 播磨散歩・1日目


カシ男は迷っていた、非常に迷っていた。牡蠣を食べに行くか、イノシシを食べにいくかをだ。
そんなカシ男に指針を与えてくれたものがあった。
播磨の高砂市に、竜山石を使った石の宝殿というデカい岩があると博物館のボランティアの人が教えてくれたのだ。
選択は牡蠣に決まり、前々から気になっている有年や尼子山なども解決しようという算段と相成った。
靄でかすむ畝傍の森に迷いを置いていき、まばゆい光の差す葛城の峠を越えじとカシ男は歩きだした。

初日の目的地は有年地区となります。まずは有年考古館(クリックで博物館めぐりへ)を見学。観覧に時間がかかってしまい周辺散策は昼からとなりました。

「有年周辺マップ」※クリック拡大
有年考古館から東へと進み、線路を越え明源寺へと到着。明源寺は江戸時代の有年絵図において洪水避難所に指定されていたにもかかわらず濁流にのみ込まれてしまったところです。
その明源寺の裏手から山へ入り、古墳群を見学していきます。

古墳群への道はきっちりと整備されており、急な坂道を上がるものの、迷う事もなく数分で頂上へと到着し、蟻無山1号墳を拝むことができます。

※説明板より抜粋
「古墳時代中期(5世紀前半)に築かれ、全長52m、44mの円丘部に突出部と造出しが付属する「造出し付き帆立貝形古墳」である。初期須恵器、円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪などが出土している。当時としては播磨最大級のもので種類豊富な形象埴輪はヤマト政権との密接な関係をうかがわせるとともに、初期須恵器の出土から渡来人とのかかわりも考えられる。」

周辺には葺石に使った川原石が散らばっている。
説明板によると、このような形になっているらしいのですが、造出しや突出部はあまり分からず、丸っぽくて3段くらいに段々作りに造成されているのかな、と感じるくらいでした。埋葬施設は不明らしいですが墳形から竪穴式石室だったと考えられるそうです。
播磨の古墳時代は
  1. 古墳時代前期・各地で前方後円墳が多数築かれる
  2. 古墳時代中期・前方後円墳が激減し、円墳や造り出し付円墳、もしくは帆立貝形古墳が多数築かれる
  3. 古墳時代後期・小型の前方後円墳が多数築かれる
このように時期による墳丘の違いがあるらしい。(蟻無山古墳群測量調査に記載)
有年考古館の説明員の方が、帆立貝形古墳は前方後円墳の前段階ではないとこだわっていたのがここで理解できた気がします。

続いて蟻無山古墳から北東にある奥山古墳へと向かいます。
奥山はフェンスで仕切られているので、いちいち開けて閉めての作業をする必要があり少しめんどくさいです。
そんな憎々しいフェンスの横を歩き続けていると、あちこちに古墳の主張のような岩が転げ落ちておりました。急に高くなっている山だからなのか、岩の流れだけでなく、水の流れにも苦心しているようでブリキ板の排水溝なども設置していました。
北へ向かって歩いていると、少し尾根が平らになった部分にある「入れない石室」に到達します。

ギリギリ入れそうで入れない石室です。天井岩が落ちている岩に少し引っかかっているので、どかすこともできませんでした。


仕方がないので中だけを覗いてみることにしましょう。巨石を綺麗に積み上げて見事な石室でございます。
付近の割れた岩を見てると花崗岩のようでしたが、石室内部の筋っぽい岩を見ていると流紋岩のようにも見えてきます。

入れない石室から東へ向かい頂上の鉄塔を目指します。急な斜面にむき出しの岩が点在し、風化していても丈夫な岩や、折れてしまってもしっかりしている木を頼りに登っていきました。
頂上の鉄塔の部分が奥山古墳と言われているところになります。蟻無山古墳に続く古墳群と目されているようですが、土盛りだけの古墳で石室の存在はないようです。
鉄塔の部分から西の山々と千種川をみながらオヤツタイムとしゃれこみました。千種川の西の山にも古墳がたくさん存在しているのですが、これだけ大きな川を隔てているとこちらとはまた違った古墳があるような気がします。

ここから尾根沿いの緩やかな道をしばし北へ進むと北山古墳へと到達します。
少し盛り上がったところがあって、その真ん中に石室がぽっかりと穴をあけていました。
有年考古館を作った松岡氏がこの付近も管理していて、入りやすいように天井石の一部を外しているのでしょう。せっかくのご好意なので石室内を見学いたします。


石室の内部は先ほどの入れない石室と同じような作りになっております。半分ほど土砂で埋まっているものの、綺麗な石組がそのままに残っております。石材は先ほどと同じでタイプで流紋岩のように見えます。

ここから山を下りて麓の集落のすぐ裏にある木虎古墳を巡ります。
道を降りて行くと自然と柵から出てしまうのですが、古墳は柵の内にあるので、柵から出ないことをお勧めします。


麓から東へ向かうとまず見えてくるのが木虎1号墳です。遠くから見てももっこりとしているので、一目で古墳だと分かります。綺麗な円墳にゴツゴツとした岩が丁寧に積み上げられ、集落へ向けて口を開けています。ここも先ほどと同じような岩質でした。

さらに進んで行くと観光マップにもとりあげられる木虎2号墳へと到達します。
1号は柵を開ける場所が無かったのですが、2号は目の前で柵が開けれるようになっていたし、説明看板も存在しておりました。


1号と同じような作りでしたが、岩が綺麗に成形されており、石室内部には棚が存在しています。
※説明板より抜粋
「21基で構成される木虎谷古墳群の中で最大。直径約15mの円墳。長さ7.7m、幅2.3mの両袖式横穴式石室。奥壁に据え付けられた石棚が最大の特徴であり、高さ1.1mの位置に厚さ40cm程度の扁平な板石が埋め込まれている。かつては床面にも同じ板石が据えられていたと伝わっていて石棺のように利用されていたと推定される。出土遺物はガラス玉1点。6世紀後半頃の築造と推定。」
岩質はまったく違うのですが、和歌山の岩橋千塚古墳の石棚もしくは石梁と非常によく似ております。実用的に使われたというよりも、もっと違う目線で使われていたのかもしれませんね。邪気が上に向かって出て来ないようにとか。

この付近にもまだまだ古墳があるようなのですが、時間がないので一番有名な塚山古墳群へと向かいます。木虎から少し距離があり徒歩20分ほどかかりました。
朝は寒かったのに昼を過ぎてどんどん暖かくなってまいります。
季節外れの陽気に誘われ散歩する時間は、古墳と共存する町の存在とあいまって、少し懐かしい気持を感じさせてくれます。

塚山古墳群は円墳が密集して作られているところですが、なぜ有名かといいますと、石室の中に門状の間仕切りが存在しているのです。そしてその名称が「祇園塚型石室」と言うそうです。

杉林の中にポッコリ、ポッコリと墳丘が目立ちます。入れるようなしっかりとした石室もいくつかあって非常に楽しめます。

入り口は狭くても中は広くしっかりとしたものがあり、

ひずんでしまい怖くて中にはいれないようなものがあり、

石室自体がなくなってしまったものがあり、

すごい歪んでしまったけどもちゃんと入れるものもある。
このような様々な石室に囲まれて幸せな時間をすごすことができる空間が塚山古墳なのであります。

そして一番有名である祇園型石室の塚山6号墳です。
※説明板より抜粋
「古墳時代後期の横穴式石室をもつ方墳で、塚山古墳群の中で墳丘・石室ともに最大規模。全長11.44m、左片袖式、玄室は中央に間仕切りを立てて、前室と後室に分けている。このように玄室を分けているものは珍しい。」

入り口だけが何故か歪んでいますが中はしっかりとしております。
来客を総出で歓迎してくれるカマドウマ達。
他の古墳と違い岩が綺麗に成形されておりますね。墓主の立場の違いがみてとれるようです。
間仕切りに関しては茨城で見た佐都ヶ岩屋古墳と似ていますが、こちらはかなり規模が大きいですね。
岩質は先ほどから見ている岩と同じ岩だと思われれます。流紋岩だと思いますがよく分かりません。

この日はこれで帰ったのですが、奥にもまだまだ塚山古墳群は広がり、より良好な石室や、間仕切りを持った石室もたくさんあるようです。次回の宿題にしたいと思います。

最後に牟礼八幡神社にお詣りをして、農耕絵馬が無い事に疑問を抱きながらも、有年の町に別れを告げました。

JR有年駅前にて
元々は田畑があったところで地盤があまり良くなさそうなのですが、田畑を使わないようになったからか住宅地として開発されております。まだまだ家は全然建っておりませんし、需要がどれほどあるのか分かりませんが、有年の町も次回来た時にはすっかり様変わりしてそうな気がします。

この有年の町を見れば一目瞭然なのですが、人は何かを変え続けていなければいけなのでしょう。あちこちで聞く掛け声に「空き家!!空き家!!」がありますが、このように需要のないようなものでも作り続けなければならないのです。
古墳も同じように、「古墳師」という職業があって、そこに食うに困った流民共が集まり、古墳を作るという仕事を与える事で、国の形を保っていた・・・などということもいえそうです。



2日目 / 3日目 /

旅行記に戻る