宇和島旅行9日目


本日からは松山観光。宇和島から松山へバスで向かうのだが、気をつけなければいけないことがある。松山には、伊予鉄松山市駅とJR松山駅という2つの駅があり、宇和島バスは伊予鉄松山市駅を通り道後温泉へと行くので、JR松山駅には停車しないのだ。私はJR松山駅付近のホテルを予約してしまったので、伊予鉄松山市駅を降車後に20分ほど歩く羽目になった。しかし、慌てる必要はなかったのである。松山の中心街にはぐるりとチンチン電車が巡っていて、当然、両松山駅はチンチン電車でつながっていたのだ。
このチンチン電車が非常に便利であった。携帯を宇和島バス内に忘れてしまい、道後公園駅まで取りに行ったのだが、本来なら歩いて小一時間はかかろうかという距離をわずか25分ほどで送ってくれるのである。しかも1乗車160円という分かりやすさは旅行者にはありがたい。

道後公園駅に立ち寄ったついでに、すぐそばに立地している湯築城跡へと立ち寄ってみた。道後公園は昔、動物園として市民の憩いの場になっていたのだが、動物園の移転後、発掘調査によって中世の遺構がよく残る城跡であることが発見され、史跡公園として保存、開放されている。

湯築城は伊予守護の河野氏の居城である。河野氏は現在の松山市北条地区を本拠としていたが、南北朝期にこの場所へと移ってきたらしい。当初は丘陵部のみを利用した山城であったが、戦国時代には堀と土塁を二重にめぐらすようになっていったという。
河野氏の中で有名な人物は「河野通有」だ。元寇の時、日本軍は土塁の内側から応戦していたのだが、通有だけは土塁の外側へと突撃して戦ったという。これは曾祖父である河野通信が承久の乱の時に朝廷方について敗れてしまい、没落したことが理由ではなかろうか。この活躍により通有は伊予国において所領を得ることができたという。

この話を種に小説を描いたものが「蒙古来たる・海音寺潮五郎/著」である。海音寺氏の考える時代背景と人物評の中を、氏が好む純情青年が生き抜いていく物語だ。筋書きが分かりやすく読みだすとハマってしまう傑作なので、是非読んでほしい作品だ。

湯築城マップ※クリック拡大


まずは大通りに面する西口の搦手門より入場する。現在ではこちらの西口搦手門からが入りやすいが、当時は東口が大手門だったらしい。南に入口は無く、北口は道後温泉商店街へとつながっている。
河野氏は、東にある石手寺と北にある道後温泉という経済拠点を取り込みたかったが為、中間にある湯築城へと本拠を移してきたらしい。それゆえに東口が大手門だったのだろう。


西口搦手門を入ってすぐのところに湯築城資料館がある。こじんまりとした展示室だが、無料なので立ち寄ってみるべきだろう。河野氏に関しての説明は少なかったが、遺物や遺跡は多く残っており、展示ケースにはそれらが所せましと並んでいた。ボランティアの解説員もおられるので話しを聞いてみるとより分かりやすいかと思う。

西口搦手門脇の外堀。並々と水が湛えられているが、どこから取水しているのだろう?1535年河野氏が各寺院に「温付堀」築造の為、人足の動員を命じたことが文書に残っているという。それが湯築城の外堀と考えられているのだが、これは温泉のお湯を堀に流したということなのだろうか?


上写真は城内にある土塁と内堀。堀は幅が11m、深さ3mもあるらしい。この堀も城の中心である丘陵部分をぐるっと囲っているのだ。かなり大がかりに作られている城だが、単調な造りになっているように思える。大した防衛力は無かったのではないだろうか。

城内の南側部分(もともとの動物園地区)では武家屋敷が復元されている。ここに家臣団が住んでいたそうなのだが、かなり狭かった。約150坪くらいの広さの屋敷が8区画分あったようだ。1つの屋敷に一族郎党が入るとしても人数的には少数ではないだろうか。


復元屋敷内の1つは展示室になっていた。鎧や刀だけでなく、鍛冶道具や建築資材などが展示されている。これらの道具が当時どのように使われていたか解説されていて分かりやすかった。

下写真は井戸か便所かと思われたが、水の湧く層に達してないし、寄生虫の卵も見つからず、井戸でも便所でもないらしい。みなさんも考えてみてくださいと書いてあったので推測してみるが、貯蔵庫かアート作品以外には思い浮かばなかった。


写真の穴のような場所はごみ捨て穴だったらしい。いろいろな土器が出土していることから、儀式や宴会で使用されたものを捨てる場所として作られたと考えているようだ。前方に見える岩肌(奇岩)を見ながら宴会を行ったのではないか、とも書かれていたのだが・・・、どうだろう?

南側の復元地区を通り過ぎると、大手門とグラウンドがある。ここでは人々がゆったりと時間を過ごしている。その一隅に岩崎神社の鳥居が建っていて、ここが城への登城口になっている。
岩崎神社は江戸時代に松山藩の竹奉行が再建したという。神社の説明板にもお爺さんがここでたけのこを掘ろうとしていたと書かれているし、竹林があったことが分かる。しかし、江戸時代でも竹はしっかりと管理されてしまっていて、意外と自由に刈れなかったのかもしれない。
説明板の祭神に河野氏一派だけでなく、小千命(おちのみこと)の名前もあった。伊予国において越智氏とは一体どういった存在だったのだろうか?非常に気になるものだ。


あまり城らしくもない山を登っていくとすぐに本丸(本壇と呼ばれる)の部分へと到達する。ここには展望台が設置されていて、発掘調査でもめぼしいものは見つからなかったようだ。
本丸から、二の丸(杉の壇と呼ばれる)を見下ろしてみると曲輪らしい平坦地となっている。ここでは色々と発掘されているようだが、城のことがどこまで判明しているのかは分からない。杉の壇と銘打たれてるのだから杉を鑑賞した場所のような気もするが、そもそもここは竹藪だったのだ。それがすっかり変わっていることを考えると、もはや城の事など分からないのではないだろうか。
竹藪時代が終わって以後、動物園より以前、湯築城は公園として使用されていた。競馬会が開催されたり、ロシア人捕虜による競輪会も開催されていたようだ。武士団居住区には庭園も設置されているし、城としてよりも公園として皆さまに愛されていたのが湯築城なのだと思う。

湯築城見学後は昼飯を探し大街道という商店街へとやってきた。この商店街はかなり人出が多く、イベントのようなものも開催していたしお店も多くあった。松山に来たのに、なぜか淡路カレーを食べ腹を満たし、すぐ近くにある坂の上の雲ミュージアムへ。

安藤忠雄らしい建物で船をイメージしたものなのだろう。それはいいのだが、長いコンクリートの廊下などはいくつも見てきて飽きてきているのだ。安藤氏に期待されているアートとはこのようなものなのだろうか?
私は美とは曲線により生み出されると思っているので、ここまで直線的ではアートではあるかもしれないがあまり美しくは感じられない。

せっかくミュージアムに来たのだが、坂の下の雲は読んだことも無ければ興味もないのでサッと見るだけにした。少し気になったのは山下亀三郎氏が、坂の上の雲の主人公である秋山を匿っていたことがあるらしいことだ。宇和島に来て初めて知った人だが、これほどこの人の名を多く見受けることになったことに驚きだ。

この日は特別展として「中世の忽那諸島」が開催されていた。
忽那諸島とは瀬戸内の広島ー愛媛ー山口の間にある島群で、中世では忽那氏と呼ばれる氏族が忽那諸島を拠点として、付近の海を支配していたと目されている。古代から法隆寺の荘園として記録に残っているが、藤原北家の親賢という人物が忽那島に流され、忽那と名乗ったという。以後は鎌倉幕府に地頭職に任命され、南北朝期には忽那氏が2つに分かれて活動した。やがて、河野氏の台頭によりその支配下におかれたが、河野氏没落後のことは不明な点が多いという。

この忽那氏の文書と、忽那島に建てられているお寺の長隆寺の文書の2つがあることにより、中世の忽那氏の動向が見えてくるらしいのだが、私の知識ではあまり理解できず、そういう氏族がいたのか、くらいにしか思わなかったので、もっと詳しい展示を期待したいと思う。
忽那諸島は松山市が進めるフィールドミュージアム構想のサブセンターゾーンらしい。また新しい言葉を使っているが、島全体を博物館のように使おうということだろうか。以前、しまなみ海道に行った時に補助金を貰うために観光誘致の活動をしている、ということを聞いたことがある。また離島振興交付金などもあった気がするし、そのためのフィールドミュージアムなのかもしれない。名前が気に入らず、かなり反発心が煽られるのだが、ちょっとだけ行ってみたい気もする。

ミュージアムを出た後は翌日の行動の為、地図を探しに観光案内所へ。久米官衙の地図や松山市考古館の行き方もほぼ理解できたところでホテルへと帰った。
夜は中華料理ハルピンでたらふく食べる。しかし、松山の名物ってなんだろうか?まったくイメージが湧かないのだ。






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