宇和島旅行8日目


本日の朝食もスーパーフジでの購入品。郷土料理の魚介味噌とろろのさつまめしと、おからを魚で巻いた丸寿司だ。一風変わった料理だったが、甘めの味付けが好みでは無かった。


この日は電車で伊予吉田駅へと向かった。宇和島から7〜8kmほど北に吉田町があるのだが、山が立ちはだかっている為なかなかに遠いところだ。ここは宇和島藩の支藩である吉田藩の在所なのだが、山あいの細い谷間に無理に町を開いたようなところである。

山が険しいためかいくつかトンネルをくぐりぬける。そのトンネルを抜けてすぐのところに海蔵寺というお寺があり、電車からチラッと見えたので立ち寄ってみることにする。
山門を通ると、正面に本堂、左手には墓場、右手には閻魔堂がある。彼岸の時期ということで墓参りの方が多くおられ、みなさん手にしきびを持ち、墓前に活けている。

朝食に限らずお墓にも一風変わったものがあった。なんと墓石の上に五輪の塔を設置しているのだ。このような斬新なアイデアを持った人がいるのが吉田という町なのかもしれない。

本堂の右手を抜けて奥へ行く道があり、そこには「安藤継明」という人物の霊廟が建っている。これは吉田藩でのある騒動によって建てられたものなのだ。

吉田藩は3万石もあったのだが、百姓たちの暮らしは厳しかったという。藩領の山奥筋と呼ばれる地域では製紙のもとである楮(こうぞ)を作らせていた。ここから作られる紙を大阪へ送り現金を得ていたのだが、藩が商売をするわけにもいかず法華津屋という商家にとりしきらせ、法華津屋以外に紙を売ることを禁じたので、法華津屋の儲けは莫大だったらしい。対して、紙や楮を作る百姓たちに還元される利益は少なく、貧しい暮らしぶりが変わらず不満がくすぶっていた。

寛政5年(1793)ついに百姓たちの怒りが爆発し一揆が起こった。これは吉田藩紙騒動とも武左衛門一揆とも言われ約9600人もの人々が参加したという。武左衛門とはこの一揆を主導した人物で、山奥筋と呼ばれる地域の中でももっとも奥の大野村に住んでいて、桁打(伊予弁で、門付けのこと)に化け、3年もかけて領内を組織したらしい。

写真は吉田町の商店街で見つけたポスター。今でも武左衛門の功を忘れまいと思う南予の人たちの思いがここに詰まっている。

この一揆の結果を先に言うと、百姓側が出した11ケ条の要求を吉田藩がすべて受け入れることになった。このような結果になったのは本藩である宇和島藩の介入にあるという。
一揆らの当初の目的は御用商人「法華津屋」を打ち壊すことであったが、近在の村々の百姓たちを取り込むうちに、宇和島藩の代官の在所がある村があり、その代官が一揆に和解の斡旋をしようと宇和島藩領中間村八幡河原へ一揆勢を誘導した。
この八幡河原において吉田藩と一揆勢が交渉したのだが、この交渉がうまくいかない。そして、家老である「安藤継明」がでてくるのである。
安藤継明は以前より百姓側の待遇を改善すべしと藩に要求していたのだが、主張は入れられず今日この日が訪れた。安藤はこの騒動がおこると、とても口舌ではおさまらぬと覚悟を決めて、前日に遺書をしたため白無垢の装束や首桶まで用意し朝船で八幡河原へと向かったという。しかし、安藤をもってしても一揆勢をおさめることはできず、一切の責任は自分にあると、ゆうゆうもろ肌ぬいで腹をかき切って果てたのである。
これを見た百姓ども、その姿に気圧されたのか、11ケ条の願書を提出し、それぞれの村に帰って行ったという。
そして、宇和島藩家老桜田数馬は吉田へ赴き重要書類の引き渡しを要求したらしい。吉田藩に非があるために一揆が起きたのであって、吉田藩を取り潰すこともやぶさかではない、という宇和島藩からの意思表明であったのだろう。これによって吉田藩は一揆と早急に和解せねばならぬ感覚に陥り、すべての要求を入れなければならない要因となった。これが宇和島藩が裏で糸を引いていたという説の根拠となるものであろう。

見事に割腹し果てた安藤継明の神社が吉田町内にある。元屋敷跡に明治6年に建てられたものだと説明されている。
海蔵寺の霊廟の説明板によると、61回忌の嘉永6年(1853)2月、海蔵寺の山上中天に神光があったことにより建てられたと書かれているが、継明神社の説明板では、嘉永6年(1853)豊後の漁師が五神島で安藤の夢を見て遭難せずに済み、海蔵寺の安藤の墓所を探し当て祀ったことで参詣者が多く集まるようになった、と書かれている。
嘉永6年(1853)はペリーが浦賀に来航した年であり、世の乱れがまさにはじまろうとしていた時である。これを民衆が察知し安藤様に再度解決を願おうといったところだろうか。開明的な宇和島藩であるから不穏な空気を読み取ったのか、海の民であるからなのだろうか、それはわからぬことだが、神頼みという原始的な方法に頼らざるを得ないのが民衆の悲しむべきところだ。

同じような問題として、2020年4月のコロナ騒動があるのではないだろうか?報道は加熱し、上も下もすべてがコロナを意識しているかのように捉えられる。しかし、現実には必ずしもそうではなく、多くの人がコロナを意識していないのだ。
数年前の五輪ピックのカーリング娘?の「そうだね」というフレーズも報道加熱の典型的なものであろうし、他にも探せばいくつも似たような問題があるはずだ。
そして、私たち民衆がする行為は、カーリング娘たちが食べていたオヤツに飛びつく、マスクや消毒液に飛びつく、といったことであり、合理的に科学的に成長したかと思われる現代国家とは思えないような始末なのだ。ここは落ち着いて神頼みをしていたほうがいくらかマシなのでは?という疑問ももつほどである。

話を元に戻そう、物語のその後である。
安藤継明は切腹後61年後に神に昇華した。
一揆の首謀者であった武左衛門は、姿を巧妙にくらましておったのだが、藩側では一揆の首謀者を必死に探していたようだ。寛政6年、吉田藩役人岡部某が河川修繕工事のため上大野村(現宇和郡日吉村)に出張した際に人夫を酒に酔わせ一揆の首謀者を聞き出すことに成功し、上大野村武左衛門、是房村善六ほか24名が判明する。吉田藩は早速追っ手を遣わし捕縛し、武左衛門は斬罪、他は永牢(安藤継明の17回忌の時に大赦)に処したという。

法華津屋はどうなったかといえば、寛政9年に大そうな石灯篭を和霊神社に奉献している。
吉田藩の町人町建設当時から店舗を構え、紙だけでなく海運業、金融業も営んでいた法華津屋。武左衛門一揆の蜂起に驚き紙方よりの撤収を図ったというが、紙での儲けが無くなったといえども、商売で繁盛していたことはこの灯篭を見れば分かるのではないだろうか。

このように、事件後しばらくは法華津屋が得をしていたと思われるのだが、現在に至ってみると、安藤継明、武左衛門という二人の名は大きく残り、信仰されている。歴史は未来によって作られるということがここに現れていると思う。
(参考ー街道を行く/伊予の歴史/えひめの記憶)

昼食はうどん「国安」で。ひと昔前の柔らかいうどんで500円前後の値段がいいお店だった。国道からは少し中へ入った商店街の筋に立地していて、この他にもいくつか料理屋があり、スーパーや病院もある繁華なところだった。

この後、吉田藩陣屋跡である吉田図書館を見学し宇和島へと戻った。豪商や武家屋敷を移築した「国安の郷」というテーマパークも見てみたかったのだが今回は断念。次回は武左衛門をテーマに観光してみたいものだ。

宇和島に帰った後、伊達家の墓所を訪ねてみる。谷間に作られた住宅を見ていると宇和島の地勢が見えてくるではないか。


立派なお寺が立ち並ぶ中、伊達家の墓所の山門は壮麗であった。初代秀宗には殉死者が4人いたという。その後に殉死者はいないようだが、童女や童子と書かれたお墓が藩主の脇に据えられていた。これは早死にした子供だとは思うが、よもや殉死ではあるまいな?

この日で宇和島とお別れになるので「きさいや市場」でお土産を購入。わかめとひじき、闘牛饅頭にお気に入りである唐まんを購入。闘牛饅頭は包みの絵がかっこいいだけで普通の饅頭だった。






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