宇和島旅行7日目


朝食は連日のスーパーフジ弁当。やや飽きてくるも仕方なし。
本日は「街道を行く」でも取り上げられていた卯之町へ訪問する。
宇和島駅からバスで約20分ほど、卯之町バスセンターへと到着し西予市役所へと向かう。途中、王子神社があったので立ち寄ってみた。

この神社の境内に、大木の割れた空洞部分を女陰として見立てその中に石の棒を立てる、というアート作家の作品があった。よく分からないままただ見ていると、雨がポツポツと降ってきた。アート作品は打ち捨て、急いで市役所へと向かった。

市役所でマップをもらい、どこへ行こうか悩みながら雨が止むのをしばし待つ。
卯之町の旧中心街を通り、愛媛県立歴史文化博物館を目指すのが観光の王道だと考えは決まり、雨が止むと共に町へと繰り出していった。

宇和島と松山を結ぶ宿場町として栄えた卯之町には、江戸末期から昭和初期くらいまでの古い建築物が建ち並び「重要伝統的建築物群保存地区」があり、観光用にアピールされている。
その町並みは、須田画伯が目を血走らせ「ここは大変な町です。京都だって奈良だってこんな一角がありますか」と、驚嘆したほどのところなのだ。
それほどの場所にも関わらず、私にはどこが該当の場所なのか分からず「道の色が違うからここだろう」と一昔前の商店街通りの写真を撮り、ここを重要伝統的建物群だと思い込んでいた。後でここは重要建築群ではないことに気づいたのだが、この時は須田画伯はいったいどこに感動したのだろうか?と思い、周囲を見まわし疑問に包まれながら、博物館を目指して歩いていたのだ。

歴史博物館は丘の上の森に囲まれる場所に建てられている為、徒歩では少し行き辛い場所にある。階段でもつけてくれれば助かるのだが、徒歩は想定外のようで無視されている。

外観はよく分からなかったが、館内に入って見てみると凝った造りをしているように見える。丘の上の悪い場所にわざわざ建てている事を考えると、アート建築家が作ったものかと思われる。
2階に入場口があり、料金を支払い中へ入ると、古代から近世までの歴史展示となっている。そこから順路に沿って見ていると、1階に降り、民俗展示となる。各地の祭りのビデオが見れたり、民家の復元をしていたり、四国遍路の展示がある。

個人的に気になった展示は、瀬戸内の島「弓削島」は塩荘園として利用されていたことが東寺の文書でわかること。そこに鎌倉時代、幕府の地頭がきて領分争いになり島を半分にわけたこと。
鎌倉時代に源氏の味方をした河野氏が、承久の乱では後鳥羽天皇につき岩手県の江刺に流され、河野氏の力が衰えたこと。元寇の時に河野通有が奮戦したことにより再度地位が上がったこと。
幕府が島を重要視したことや、河野通有が元寇の時に奮戦しなければならなかった理由などが理解できた。

伊予全体の歴史展示なので、西予市の事は全然展示されていなかった。1階の民俗コーナーが充実していたので、そちらのほうに力を入れているのだと感じた。

帰り際に受付で質問をしてみると学芸員の人を呼んでくれるというので、売店コーナーで前日に購入した弁当を食べながら待つ。
少しすると学芸員の方が来た。伊予らしいやわらかい口調の男性で色々と教えてくれた。駄馬は山がなだらかになった部分。現在弥生時代の製塩遺跡の調査をしているので、これから詳しい事が分かってくる。牛鬼は本来は秋祭りで露払いのために行うが、現在は観光用になっている。墓石の猫足の加工は昭和30年頃まで瀬戸内で流行した。宇和島の砂岩は加工しやすく宇和島石と言い、墓石によく使われた。
ここまで観光してきて感じた疑問が解決し、胸のつかえがとれたようだった。最後に「愛媛の記憶」という愛媛県史がネットで見れると教えてきただき、口調だけではなく仕草もやわらかくゆったりと帰っていかれた。

歴史博物館を辞去し卯之町へ向かうが、あいにく雨がきつくなってきたので町並み散策はできなかった。
急ぎ足で「民具館・開明学校」に入り見学をする。(クリックで博物館めぐりの詳細記事へ移動)

開明学校も時間が無くすべては見れなかったし、まだ雨が降っていたので卯之町の散策も断念。これで須田画伯が驚嘆した卯之町とのお別れとなった。


この日の晩御飯はスーパーフジの近くにあった「cadys」というハンバーグ屋さん。マクドナルドのような店と違い、具もパンもしっかりとしていて食べ応えがあり美味しかった。
ホテルでハンバーグを食べながら、本日、見聞きしたものをまとめ、足を休ませた。







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