宇和島旅行10日目


松山に来て二日目。この日の朝食は、JR松山駅構内にある「じゃこ天うどんかけはし」へ。なぜかじゃこ天は食べず、ワカメうどんにとろろうどんを注文。特徴はあまりなかったけどうまかった。


腹を満たしたあとはバスに乗って松山市考古館へと向かう。このバスの運転手は曲がるたびに、止まるたびにマイクで乗客に報告をしていた。他にもバス停の説明やらもするのでずっとしゃべり続けだった。松山では丁寧に説明するのが定番となっているようで、チンチン電車でも同じように停車することを乗客にいちいち報告していた。必要な情報だけをしゃべってくれたほうが聞き逃しにくいと私は感じた。

バスのアナウンスに揺られながら考古館最寄りの丸山バス停へと到着。そのバス停の向かいには慰霊碑のようなものが建っており、何か儀式のようなものを開催していた。不思議に思い、これは一体なんだろう?と近づいて説明板を見てみた。
「軍馬・軍犬・軍鳩・家畜慰霊塔について」とあり、明治天皇の歌「人ならば誉のしるし授けまし戦のにはに立ちし荒駒」が記される。そこから説明に入り、「先の大戦では約70万頭の軍馬、数知れぬ軍犬、軍鳩がめざましい活躍をしたが、終戦時に生きていたものはすべて占領軍に引き渡され、故郷へと帰ってくることはなかった。」と、物言わぬ戦士たちのその後が分かる。この慰霊の塔は昭和十九年に建立されたもので、家畜(家畜とは、兵器や軍装に使われた皮革や防寒毛皮の犠牲となった牛・馬・兎)までも含めたものは他に例がないらしい。
何故ここに家畜慰霊塔があるのか分からなかったが、やや南には愛媛県戦没者慰霊碑があり、もともと陸軍の墓地であったようだ。

この後の松山市考古館は博物館めぐりにて公開しているので是非どうぞ。

考古館の方に久米官衙やその周辺の事について聞いてみると、徒歩では行きにくいから自転車を電車に乗せることができるサイクルトレインを使いなさいと教えてくれた。他にも、五郎兵衛古墳とその近所の小学校では埴輪を飾っており夜は少し気持ち悪いことや、波賀部神社古墳がお勧めだとかいろいろと教えてくれた。昨日に話を聞いた人もそうだったが、松山の方はかなり丁寧に調べたり答えたりしてくれる。バスの運転手もそうだが、これが松山名物といってもいいものではなかろうか。

再度松山駅へ戻り、レンタルサイクルを借りて松山市駅から久米駅までサイクルトレインを使用する。土日祝だけ利用ができ、乗車賃+利用券290円を購入。電車の一番後ろの車両に自転車持ち込みスペースがあるのでそこに乗り込む。しかし、普通の電車なので狭いし、自転車じゃない乗客がたくさん座っているのでほとんど利用されていないのではないかと思った。
伊予鉄久米駅で降り、すぐ近くにあった「青空食堂」というところで食事をする。シンプルな食堂だったがおいしかった。

ここからは自転車でしばらく走り葉佐池古墳を見学。こちらは城攻めにて公開。

葉佐池古墳の展示館で、説明員のおじさん二人に奈良の斉明天皇陵は8億円を使ってただいま建設中と宣伝をしておく。8億円にも驚いていたが、年に一度は歴史研修旅行をするらしいので候補地にちょうど良いと喜んでいた。宣伝効果が出たところで別れを告げ久米官衙跡を目指す。
あらかじめパンフレットを貰っていたのだが、主要道路の国道11号線より少し中に入ったところにあるので場所が分かりにくかった。ユニクロを目印にせよと言われていたので、そのおかげでなんとかたどり着けた。

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久米官衙は、山のすそ野からゆるやかに西へと下っていく台地にある。東北面には山を従え、南面に小野川、重信川を見下ろす場所だ。やや内陸にあるのは防御面を考えてのことだろうか、それとも洪水対策なのだろうか。
ここは、飛鳥時代の政庁跡と目されていて、大きく3つの区画がある。政治を行う中心であった「政庁」、米を蓄える場所の「正倉院」、斉明天皇の仮宮説のある「回廊状遺構」と回廊状遺構廃棄後に作られた「来住廃寺」である。

国道からすぐのところにあるのは回廊状遺構と来住廃寺で、静かな住宅に囲まれる中に空き地の空間が広がっている。
来住廃寺跡地には長隆寺が建っていて、現在では移転して長隆寺跡となっている。長隆寺とは近世にあった黄檗宗のお寺で、昭和50年代の発掘調査当時にはまだあったようだ。


この空き地の南側一角に土壇状の盛り上がり部分があり、そこが金堂跡の礎石が発見された場所である。礎石の配置から金堂は真北方向に建てられ周囲に庇がついていたことも分かっているという。
金堂跡の中心には石製露盤という黒いビニールシートで覆われたものも置かれている。露盤は建物の屋根の頂上部に取り付ける建築資材で、建物を安定させるために使用される。2トンもあるというこの石が屋根にあるなど信じられないと思っていたら、塔の土台の中心に据えられる心礎石説もあるそうだ。説を色々と書かれると悩ましい。

廃寺から少し西側に回廊状遺構がある。遺構の一番外側に道路があり、溝で区切った内側に二重に柱の列が作られていた。溝の外周が約一町(110m)四方に区切られた空間で、柱列の部分には草花を植えて分かるようにしているらしいが、草が生い茂っていてどこが柱列かまったく分からなかった。


回廊状遺構は大規模な区画施設で、溝と写真のような二重の柱列で囲まれていたらしい。中には大きな正殿跡とL字型に作られた塀の跡が飛鳥時代のものとして発見されている。このように厳重に区切られた構造は他に例をみないことから、舒明天皇や斉明天皇の伊予仮宮跡ではなかったという説もある。L字型の塀跡は、現在は目隠しの意味と考えられているが、塀の内側に時代の近い土抗が見つかっており、その土抗の用途次第では何か違った意味になってくる可能性も模索されている。

回廊状遺構の北側は、二重柱塀→溝→道路→北方官衙の塀、と作られていたという。写真はかなり北側に寄ってしまって分かりにくいが、現在の道路の下に飛鳥時代の道路もあったそうである。

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看板の説明を見てみると二重柱の塀が非常に丈夫そうに見えて、天皇の住まいと言われるとそのような気がしてくる。少し気になるのが、写真の青く塗られている細長い部分だ。そこは溝だとしか思えないので道路の方角が間違っていると思う。
回廊状遺構は7世紀中ごろに建てられ、7世紀後半には来住廃寺の建物によって回廊の外側の溝は埋められているという。つまり、ほんの一時的にしか使われなかったことが分かり、使用しにくいような構造であったのかもしれない。
本当に天皇が来ていたなら面白い話なので、この話がどこまで進展していくかを待ってみたいと思う。


久米官衙は番号が割り振られた看板に誘導されながら空き地を巡るようにできている。「これがフィールドミュージアム構想か?」と舌を巻きながら自転車で回ってみる。次の番号を探しながら住宅街の中を疾走していたのだが、だんだん自分がどこにいるのか分からなくなってしまい、回廊状遺構の他は正倉院しか見つけることができなかった。
その正倉院も回廊状遺構と同じような外観で、なんのよすがも残ってはいない。なので、結局のところ看板巡りになってしまうのである。地域一帯を博物館として使用するというフィールドミュージアム構想の難しさがあらわれている。

久米官衙を離れ、30分ほど国道を自転車で走り、ぼんやりと暗くなるころに石手川を越え市街地へと入る。この程度の距離ならサイクルトレインを使用しなくても良かったと思い、そもそもサイクルトレインとはどのような意味合いで導入しているのか疑問に思った。
サイクルトレインだけでなく、注文の多い料理店ならぬ報告の多いチンチン電車やフィールドミュージアム構想、このような少し斜め上へと挑戦していくのが松山市の特徴だと感じた。






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