2016年10月 奈良:宗我都比古神社


金橋神社から宗我都比古神社へ目指しますが、道に迷いました。なんとなくの方向は分かるのですが、というか、社叢もあれかな?と見当はついているのに、行き止まりのやたら多い住宅地に邪魔されてウロウロ。住宅地なんて入りこむもんじゃない。


住宅地の自治会掲示板にて発見した祭りのチラシ。祭りの日は午後から「ますが町巡回」と書いてありますが、ますが町ってなに?曽我町じゃないの?「増我」ってこと??小学校にいたっては「ますげ」。「増毛」??すっごーい、育毛剤みたい(笑)・・・と思ったら、相棒曰く。「ますがってJR真菅駅のマスガちゃうん」 あぁ!そうやそうや神社すぐそばの駅がそんなやったね。それがなまって「マスゲ」になったんかな?それから朝9時30分STERTと書いてあります。スティートです。いいですか、スティートです。かっこいいな。
ツッコミはここまでにして、さいごに真面目に1つ。だんじりの中継(?)神社の「天高市神社」。これは興味が湧いちゃいますねえ。

社伝や由緒など紹介する掲示板はありませんでしたので、鳥居そばの看板を見てみます。式内大社とあります。927年にまとめられた延喜式にも載っている神社だということで、その歴史が長いことが判ります。祭神は、宗我都比古大神と宗我都比売大神の2神で男女1対神の模様。ネットで由緒を見てみるとやはり「蘇我氏の氏祖」であるようです。しかしながら仏教推進派の蘇我氏が神社に先祖を祀るとは変な話です。蘇我の怨霊を鎮めるため?記紀では蘇我氏は悪役と書かれていますが、常に勝者から見た歴史として書かれていますからねぇ。だからこそ敗者=蘇我氏=怨霊への恐怖心が生まれたのかも。
また蘇我氏がこの曽我町に住居を構えていたにしろ構えていなかったにしろ、曽我という地名によって神社(祭神)の名前も宗我になっていったのではないか、と想像させます。宗我都比古のように「地名+つ+ひこ(ひめ)」と名づける例はほかにもあって、例えば吉備つ彦などと言ったりします。




「〇〇坐〇〇神社」という名づけ方は、近畿地方に特徴的なものだとつくづく思います。「飛鳥坐神社」なんかも有名ですね。坐は「います」と読み、<地名>にいらっしゃる<祭神>の社というふうに解釈できるので宗我は「蘇我氏」よりも「曽我の地」という意識が強かったのではないかと思うゆえんでもあります。「平群坐紀氏神社」というのが判りやすい例かと思うのです。平群氏も確かに存在のしていたことが言われていますが、平群氏の氏祖を祀ったならば「平群坐平群神社(平群都彦神社?)」というふうに呼ぶのではないかと思うのです。


拝殿全景です。このあたりは中曽司遺跡と呼ばれる一帯の中心であり、さまざまな出土品があるとのことです。ですから、蘇我氏の住居だった可能性もそれ以前の土着していた一族の存在の可能性もあるというわけです。


回り込んで本殿を見に行きます。本殿前の狛犬は見えませんでしたが、千木の美しい伊勢造でした。そういえば「伊勢札を祀ろう」とそんな感じの文字ののぼりが立っていましたね。


摂社の八大夫稲荷神社です。八大夫とはなんのことだろう。



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『橿原市史』(昭和62年発行)

文献にみる社史
◆『新抄格勅符抄』の大同元年(806)の牒に「宗我神三戸大和」とある。
◆「在 曽我村 今称 入鹿宮」明治四十年九月二十四日の告示で村社(『大和志』)
◆「宗我坐宗我都比古神社二座。在 久米郷宗我村石川邊。社家者宗我宿禰云。蘇我都彦神社二座。大臣武内宿禰、蘇我石川宿禰也、推古天皇御世。石川宿禰五世孫蘇我馬子宿禰。造 宮神殿 於 蘇我村 奉 祀 之」(『五郡神社記』)
◆蘇我氏の遠祖孝元天皇の御子彦太忍信命と石川宿禰を祖神としてまつる(当社宮座講の宗我座の井上家所蔵『東楽寺縁起引用旧記』、当社宮司北西氏所蔵『宗我大神伝記』元禄十年(1697)九月五日松下見林撰)
◆今もこの地に「曽我殿」「曽我堂」の小字名が残っている
◆久米郷石川の宗我社(入鹿宮ともいう)の社家をしていた家があり,この家は奈良朝期から平安時代にかけ代々宗我宿祢を称していたが,のちも長く宗我を名乗り,江戸時代に入り,領主の圧迫などにより,宗我姓をやめ,北林(紋章ききょう),井上,堀内の三氏となり,なお井上氏からさらに北西氏が出で,現在,前記の宗我座宗我都比古神社の宮司になっている。(『奈良県高市郡神社誌』)
◆明応年中(1492-1501)左衛門太郎永興、弟右衛門太郎光興とその妹の同姓三家に別れて宗我氏を称したが、堀内の姓を称させたことからこの三家で宗我講を組織してきた(拠典不明)
付属物
◆参道入口の石灯篭「元禄七星(1694)九月日願主堀内
◆宗我座講中寄進の石灯篭
◆「蘇我大神 安永六丁酉年(1777)三月 雨乞成就当村中」の灯篭
◆拝殿前灯篭「蘇我大神宮 明和八年辛卯(1771)九月吉日 藤井氏座中」
◆狛犬には「奉献明治二巳十二月 氏子中」とある外、綿屋、木綿屋、瓦屋、油屋、忌部屋など約40名の寄進名」
◆絵馬の中で古いのは「奉掛安政六己未(1859)九月日 願主蘇我座中」と「奉掛御宝前于時文久元酉年(1861)九月日 当村氏子 願主甚七、武助」「奉納 雨乞願成就 于時文久三亥(1863)秋吉日 当村氏子中」
◆本殿前一対の石灯篭「奉再建 常夜灯 明和二年(1765)九月六日 新兵衛 萬治元年(1658)九月日 願主堀内長次」と「奉再建 明和二年九月六日 新兵衛元禄七星(1694)九月日 願主堀内」 この常夜灯に古来第二次世界大戦当時まで曽我出屋敷の民家二十戸が毎夜交代で点火参詣したと伝える
◆狛犬一対には「奉納 天保八丁酉(1837)十一月 沙門鶴峯八十三翁書」
◆本殿そばの神木杉の虚木の根本近くで二枝に分かれ太いほうを男神、細い方を女神と伝える
◆本殿棟札「慶応三年卯(1867)四月二十三日」と明治十九年六月二日、明治四十五年五月二十六日など正遷宮祭のものである
◆神鏡に「明治三午年北林孫三郎、井村喜三郎」、鰐口には「奉寄進宗我大社 元禄十二己卯天