2016年10月 奈良:金橋神社


この日は、橿原考古学研究所で近いうちに「蘇我氏を掘る」というテーマで特別展示が開かれるらしき情報を得たので、予習(?)も兼ねて橿原市曽我町の宗我都比古神社を見にいく、と、まぁ前置きが長くなりましたが、そこを目指して相棒と自転車を走らせていました。

ややもすると通り過ぎてしまいそうな神社にて、視界の端っこに「安閑天皇〜〜」という文字が見えたのでペダルを踏む足を止め、先に行こうとしていた相棒を呼び止め探検することにしました。
よくよく見たら、「安閑天皇勾金橋宮跡」と書かれた石碑でした。


さらに由緒書に視線を転じてを読んでみます。 おぉ。この由緒書で一気にこの神社への興味が湧いてきました。寄り道もしてみるもんやね。
安閑天皇のまたの名前を「勾大兄」と言う。
そして宮の名前を「勾金橋宮」と言う。勾玉の勾(まが)ですね。 金橋は、近くにJR金橋駅があり、もともとの地名なのかもしれません。
さらに、この神社の建つこの地は橿原市曲川です。由緒書にも署名に見えるでしょう?まが川・・「勾川」だったのかもしれません。


安閑天皇は「勾」と縁が深い天皇だったことを想像させます。奇しくも、曲川の隣は蘇我氏の郷といわれる曽我町。安閑天皇の父親は、当時、大和にあった大きな権力に対抗する豪族連合によって擁立されたと言われる継体天皇です。地方豪族の中には物部氏や大伴氏、尾張氏がいました。そのつながりで、安閑天皇もそうした豪族連合とのつながりが強かったはずで、同母弟の宣化天皇にも同じことが言えます(ちなみに母親は尾張氏の娘)。ところが蘇我氏が突如としてその名前を歴史上に刻むようになるのは、欽明天皇、すなわち安閑・宣化の異母弟以降の話になります。蘇我氏の登場は、物部氏や大伴氏の衰退でもあり豪族連合の弱体化でもあり、安閑・宣化天皇は欽明とは別王朝でその系統が途絶えたというふうに捉える人もいます。それが今の時代、仲良く隣同士になっているなんてね。


もう1つの興味深い点。「権現講」という文字が、割拝殿にかかっている垂れ幕に記載しているのが見えます。「権現社」として地元人に親しまれていたのが、明治時代の神仏分離令によって「金橋神社」に名を改めた、とさきほどの由緒書には書いてありました。権現信仰があったということは山岳宗教と結びつきの強い地域であったことを示し、安閑天皇の宮の言い伝えが取り込まれていき、1つの新しい物語として語りつがれたのかもしれませんね。


割拝殿の中にはいってみます。つい最近執り行われた気配の残る祭壇があり、塩とお酒も供えていました。木札をよくよく見ると「奉鎮祭」と書いてあります。屋根の茅葺だったり拝殿を建て替えたばかりの模様です。キレイですもんねえ、ここの拝殿に掲示板。畝傍山口神社の神主がここも兼務していることも木札から理解できます。



割拝殿の内側に飾ってあった絵、3枚。1枚はかなり色が剥げ落ち何も見えなくなっていました。上絵は貴人が酒盃を酌み交わししている中国風の画に見えます。男性3人を酒中の仙人、杜甫、白楽天、李白だとしても、この神社とはまったく関係なさそうだし、武者集団が全員ある同じ方向を見ていて立っている男性が指さしている(?)のは白い鳥なのか、遠い方向をなのか。なにかの縁起物、縁起物語や伝承のワンシーンを絵にしているのかな?とも思うのですが、この辺りは町史や市史に当たってみたいものですね。



本殿前の狛犬さん。制作年代、奉納者名、ともに記録なし。


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