2017年11月 琵琶湖東2日目(虎姫):雨に煙る山々


遅めの8時に起床。琵琶湖のほとりに建つホテルなので、眺めはいい。モーニングバイキングの大食堂の大きな窓から眺める琵琶湖は絶景。朝日を受けて辺り一面小波がキラキラ光る琵琶湖も良いが、雨模様の琵琶湖も良いものだ。ついのんびりとした朝食となってしまう。


長浜駅の隣駅、虎姫駅で下車。ここからさらに三駅ほど北へ行くと賤ヶ岳の麓に行き当たり、山々に挟まれた狭い平地が続く「奥琵琶湖」と呼ばれるエリアになる。かつて「東浅井郡虎姫町」と呼ばれたこの辺りだとまだ平地が広々としているようだ。
ちょっと風変わりな地名で、地元で語り継がれている伝説では、長者の妻に虎御前と言う美しい女性がいたそうだ。ところが子蛇を産み落としたために恥じて身投げしてしまった山が「虎御前山」と今も呼ばれ、地名も「虎姫」としたという話である。


本日の目的は、その「虎御前山」を登ることにあった。この雨模様では、小谷山に登る計画のほうは諦めたほうが良さそうである。
虎御前山のすぐそばに「虎姫時遊館」という資料館があり、萌えキャラがお出迎えしそうな名前に反して、つつましく庶民的な施設だった。メインは虎御前山城跡に関する遺構図で信長軍の陣地の縄張図や対浅井戦の進路図が展示している。下写真は、虎御前山における織田軍の陣地。虎御前山に登るなら、寄ってみたい場所である。


虎御前山には、矢合神社の境内から登っていく。しっとりとした湿気がいっそう秋色を鮮やかにしていた。
この矢合神社の祭神は「葦那陀迦神」、琵琶湖のほとりらしい祭神名だ。しかし碑の由緒書によると古くは「八相大明神」、この辺り一帯の山を「八相山」と呼んでいたと説明している。矢合や葦に変わっていった経緯がイメージしにくく、脈絡も見えなさ過ぎて断絶感が感じられる。ちなみに、弓矢の神事が盛んであったことから八相から矢合となったと言う。
絵馬か本殿が見えないものかと裏手に廻って見ると、ちょうど本殿が改修工事中でレアなものを見てしまった。依り代たる盤座が、本殿の土台の中にむきだしの状態で置かれていたのだ。ご神罰恐れ多い。


矢合神社を通り抜けて1kmの半分もいかない距離のところに、綺麗に整備された公園 「丹羽秀長の陣地跡」 がある。樹々のはざまから田園風景を眺めたり、神社に寄り道していたのでかなり時間がかかったが、ハイキングペースだと15分で着くのではないだろうか。雨があがり、すっかり空一面に秋の青色が広がっていた。
丹羽陣地跡に来る途中に小さな展望台があり、時遊館にあった陣図と思い合わせてみると、これが「八相山」で「家康公」が陣を張っていた所ではないかと思われる。しかし現地には「蜂屋頼隆の陣地跡」の石碑が建っていたのだった。結論から言うと、ずっと先端の尾根へ伝って行ったが、徳川の陣地碑はついぞ見かけることはなかったのだ。


東側に視線を向けると、もう11月だと言うのに所々に青を残した田畑が連峰に抱かれているのが見える。どの辺りかははっきりとは判らないが、連峰のうち最も低くなっている切れ目が「関ヶ原」のはずで、越えると美濃国になる。奥琵琶湖は戦国時代末期の主な舞台の1つであったことをつくづく実感する。


電波塔を通り過ぎ北方へずんずん足を進めていくと、次第に奥琵琶湖エリアらしい細長く狭い平地に変わり、遥かだった山々も目の前にせまってくる。織田氏陣地跡が最も眺めが良かったことは言うまでもない。もともと立ち並んでいた数多くの古墳の地形を、各武将の陣地に再利用していたらしく、地元人による古墳保存会の活動が活発なのであろう、古墳群の看板および調査の途中らしき目印のテープが張り巡らしているのを所々で見受けられた。
一説に、奥琵琶湖には5〜6世紀の継体天皇即位に大きく関わった地方豪族たちが存在し、連盟を組み大和朝廷と対抗しうる強い権力を持っていたという話もある。それら豪族間の力学関係と古墳の造営にどう影響していたかもしくはなかったのか、1つ1つの古墳を比較する展示会があれば行ってみたいものだ。


振り返って琵琶湖方面を眺望すると、三つの稜線が競い合うように地平線上を横切り、ほぼ同地点でぷっつりと途切れてしまったためにやるせなく虚空に浮かんでいるかのような、それらの半島は内陸の山々とは異なる趣きを持つ。左手に見えるのが「竹生島」、細長く湖になだれこむように延びている「菅浦半島」とその後ろの「マキノ半島」、山影がもっとも濃いのが「山本山」である。


豊臣陣地から柴田陣地に行く途中に見えた小谷山が下の写真である。虎御前山の北端と最接近しているのでとても近い。時遊館で見た陣地図によると、陣地の順番としては織田―羽柴―柴田となっており柴田陣地が最前衛を受け持っていたかのような印象を受ける。確かに、ハイキングコースもその順路になってはいるのだが、いや、ちょっと待てよ。
そもそも、建っている石碑はどれも「伝」○○氏陣地となっており、確実たる根拠があって石碑を建てている訳ではない。実際に、時遊館にあった陣地図に従って各将の陣地を実際にこの虎御前山上へ配置していった場合、織田信長を差し置いて豊臣秀吉が最も高い位置に陣地があったと言うことになる。そもそも柴田が豊臣よりも前衛に立って陣地を張ることなんてあり得たのだろうか?
陣地の位置関係が身分序列と大きく矛盾している、これが第一の疑問点で、続く第二の疑問点は時遊館で見た陣地図における「呼び名」だ。「家康公」「右大臣平信長公御本陣」「羽柴秀吉公」と見えるのに対し、「柴田勝家」「丹羽長秀」「滝川一益」である。この「公」とつける者とつけざる者の間の線引きは、織田から続く天下統一の偉業を強調するものに他ならない。
そして三点目。これが後々尾を引くことになる最大の疑問点となる訳だが、陣地図には「天正十九年(1591年)」の奥書が見える。小谷山合戦(1573年)からだいぶ時を経てからの記録であることは明らかだと言える。では、なぜ1591年この時に記録されなければならなかったのだろうか。事実、1591年に記録されていなかったとしても、1591年と記すことに意味はあったはずである。

伝・柴田勝家の陣地も古墳の地形を利用しているらしい。古墳に砦や城、陣地を張ることがよくあるとは言うが、再利用しているという点である意味、文化保護活動と言えるかもしれない。
文化保護活動といえば真っ先に思い浮かぶのは河内飛鳥で、上手に畑として再利用しているが(「城攻め」参照)、虎御前山古墳は勝家以降、文化財保護活動家には恵まれていないようで、この看板がなければ土や草に埋もれたままの状態である。

柴田陣地跡から道を戻り山麓に降り立ったのは、昼過ぎだった。かなりお腹を空かせていたので、どんな食堂でもいいお腹を満たしてくれそうなお店があれば飛び込もうと思いつつ、商店街を物色するもコンビニも何も1つ見つからないまま虎姫駅前に到着してしまった。駅構内のレストランも営業時間外で真っ暗だった。何1つ見つからない?いや、超ローカルスーパーが商店街にあったではないか。
そのスーパーの名は、「多賀食料品店」。
レジで地元人がゆったりとおしゃべりをしており、のどかないい雰囲気のお店であった。「どんなご用事で来たの?」と上品な言葉で声をかけられ、事情を話すと、カップラーメンにお湯を入れてくれると言う。ありがたや。
そこから何故か井戸端会議に加わり、ここに嫁に来た時の思い出や身の上話、ここでの生活がどんなに快適で楽しいものであるかを語っていた。

虎姫駅のベンチで、秋の夕暮れの柔らかさを感じながら食べたカップラーメンやミカン、田楽豆腐のなんとおいしかったことか。

そして長浜駅に戻る。もっとも観光客のにぎわっている「黒壁スクエア」と呼ばれる街角に足を運び、ネットであらかじめ目をつけておいた古本屋を探しながらの散策。日中は人混みがそれなりにあったのであろうか、交通整理員や警備員があちらそこらに配置されていた。色んな人に尋ねてようやく見つかったのは、移転しましたの貼り紙。しかも移転先は書いてない。
隣店舗の主人が移転先を教えてくれ、たどり着いたその古本屋は、古民家を再利用した「お洒落な」お店だった。仕草も言葉遣いもマダムと呼ぶにふさわしい女主人としばし本談義をしたのち勧められたのは、「恋ちゃんはじめての看取り」「鶴と亀」。お店や女主人の雰囲気に反して、ヒューマニズム派なのか。しかもブログを見てみたら政治的思想もお強そうだ。古本屋連盟のような団体に属しているわけでもなく、女主人の好きな世界観を表現するためにやっているのかもしれない。こういう古本屋があってもいい、と思わさせられた。


虎姫駅の商店街にもあったが、こちらでも発見した。道路真ん中の噴水路。これ、山形で見たやつだ。多賀食料品店によると、ちょっと昔は積雪もあり、融雪に使われていたそうだ。

夜ご飯は、長浜市内の「みそ乃」で琵琶湖特産物を食した。
サバ素麺定食。麩の辛子和えと小鮎佃煮がついている。
サバの煮付けに使った煮汁で素麺をたいたのだろう、染み込んだために麺が茶色く、タレ不要!というくらいの味付けになっている。麺のコシがどうの滑らかさがどうのと批評する食べ物ではない。

こちらは、鴨鍋定食。天然物は黒ずんでいるんだとか。鮒の子まぶしがついていた。
鴨肉団子には、鴨骨のくだいたものを混ぜていて、食べづらかった。ワイルドすぎる。いいダシになるから骨を混ぜてると言っていたが、ダシ用の肉団子なのか?パリパリ噛み砕いて全部食べたのだが。

夜の琵琶湖畔をのんびりと散歩しながら追想の世界へと潜り込む。はたして、例の陣地図はいったいなんだったのであろうか?
奥書に見える天正19年はどんな1年だったかを概観するに、動きとしては当ホームページの「城攻め・舘山攻め(米沢)」で伊達氏移転の監視に松下氏と山内氏が米沢にやってきたと説明が見えた。いわゆる奥州仕置きというやつで、羽柴秀吉が事実上の全国統一を果たした年であるのだ。
おそらくこの年は、羽柴にたいするおべんちゃら共が各地から集まってきており、この地図もその一つではないかと思うのだ。家康にも公とつけていることを考えると家康側からのおべんちゃらかもしれない。
小谷浅井攻めなどは羽柴の活躍からすれば小さな舞台である。大きな舞台でのねつ造もきっとたくさんあることだろう。
今回の陣地図事件はそういう新たな目線を与えてくれた事に大きな収穫があったと思う。




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