2017年11月 琵琶湖南1日目(沖島):昭和の光、沖島


秋の風に吹かれながらフェリーで向かう先は、琵琶湖に浮かぶ唯一の有人島、沖島である。陸からわずか10分で行けるお手軽さもあり、この日は近江八幡駅からフェリー発着場に行くバスも観光客で混んでいた。
沖島は、地図で見ると、大玉(尾山)と小玉(頭山)がくっついたような容貌をしており、その2つの山が繋がるくぼみが島で一番広い平地になっている。もちろんフェリー発着場もそこに位置している。
下の写真でも、小玉と大玉の切れ目みたいなのが見えるであろう。そこにフェリーは向かっているのである。さらに奥におぼろげに見えるのが湖北の陸なのだが、靄がかかっていない日ならグルリと取り囲む陸の連峰が見えるのではないだろうか。


フェリー発着場に面する沖島のメインロード。
後で資料館の人に聞いた話、昔は海がこれら民家のすぐそばまであったのだそうだ。「琵琶湖総合開発法」というのが昭和40年代に成立して以降、コンクリートで固め、港を整備するという事が盛んに行なわれたんだとか。しかし、そもそも広い道路(メインロード)なんて必要のなかった島だった事は、家の裏側がよく物語っているように思える。


メインロードから枝のように、狭い路地が家と家の隙間を縫って延びていき、反対側の湖に繋がっていく。自動車が通ることのないこの島の主要交通手段が「三輪車」「自転車」なのだ。メインロードでは、自転車が無造作に折り重なって置かれていた。


港の反対側の、私用の港。裏庭みたいなものか。手作りっぽい波止場も所々に見え、木板の破片やプラスチック製品など乱雑に打ち上げられた漂着物が目立つ。湖を身近なものとして「船」メインの生活をしてきた姿を垣間見る思いがする。こちら側が島民にとっての本当の「港」なのかもしれない。


メインロードに戻り、石切り場を目指す。
島の形に沿って歩いて行くとメインロードもいつしか細い道となり、農作業格好をした女性たちが何人か三輪車で我々を追い越して行った。北先端まで来ると畑と湖だけが眼前に広がっている。我々を追い越して行った女性たちが農作業に精を出していたり、堤防に腰掛けて雑談に華を咲かせていたりしていた。
すれ違っても目を合わさないように意識しているのが丸分かりで、あまり観光客にいい印象を持っていないのかと思ったが、雑談中の女性たちに道を尋ねると堰を切った水のようにあっちからこっちから話しかけてくる。
曰く、「(2017年の)台風21号で生まれて初めて、沖島が浸水した」
曰く、「湖が緑色なったんや。90年間生きて初めて見た」
台風という最近の出来事がもっぱらの関心事らしい。確かに甚大だった。
島の女性というのは、本当に明るくおおらかな人が多い。こんなに人が外に出ているのも珍しい。今時の田舎は真昼でも全く人の気がないものだ。
しかし、島の男性は全く見かけない。何をしているのだろう?漁?


良い季節に来れたなら、パッチワーク・キルトの、緑を基調とした可憐な模様を縫い合わせたような風景が見渡せるらしい。お行儀よく区切られた畑の1つ1つを各家で所有し、家庭用菜園として彼女たちはせっせとお手入れをしているというわけだ。この畑は、またの名を「千円畑」とも言う。
ここはかつて「石切り場」だった。
昭和に入って石材産業が衰退したことにより、一時期は「小学校建設」の話も持ち上がった。しかしながら、崩落危険地帯であったことから頓挫し、またそのために土地の価値もつかなかったのであろう。1区画1000円(事によるともっと安くかもしれない)で投げ売りされたのが、このパッチワークの正体なのである。


千円畑の背後に上がって行くと、削り取られたであろうと判明できるほどの変形した巨石がいくつか転がっており、草に覆われているその有様は長年の放置を物語っていた。それでも鬱蒼としたものを感じさせないのは、小奇麗な畑がそばに横たわっているからなのだろうか。それとも風光明媚な琵琶湖を背景にしているからなのかもしれない。
足元をよく見ると畑の区画割りに使われている石も、湖辺に積み重なっている石も、端切れ石だった。より登って行きたかったが、柵がしてあってこれ以上は踏み入ることが出来なかった。駆除しても本土から猪が泳いで渡って来、食い荒らすのだそうだ。


石切り場を降りて行くと、雑談していた女性たちはちょうどお昼時で休憩をしていたのだが、また話しかけて来た。フレンドリーで、最初の印象と全然違う。ミカンの木に実がたくさんなっているから、持っていけとのことなので、指差す方向に向かうとそれはもう立派なミカンの木が立っていた。
落ちていたマフラーも、誰かの落し物やから漁協に届けてやってと声をかけてきたし、本当に親切。
※写真は、堤防の外に築かれた畑。台風による漂着物を片付けていた。


再び港に戻り、予約しておいた「湖島婦貴の会」の沖島弁当にありつく。沖島の幸や郷土料理が堪能できるいいお弁当だと思う。
右上から時計回りに、ワカサギの南蛮漬、ビワマスやワカサギや手長エビの天麩羅、ビワマスの刺身、鯉の甘煮、小鮎の佃煮、エビ豆の佃煮。ボリュームはもちろん満点だ。


西日本でしかお目にかかれない野生の果物「ぬべ」。あけびに似ている。湖島婦貴の会の人は「お供え物に採ってきた」と言っていた。


食堂のすぐ近くにある「おきしま資料館」にて。もうすぐ90歳になるという受付の男性は、沖島のまさに生き字引というべき存在なのだろう。若いときは石切り場でモッコを担いで働いていた事もあったと言う。
沖島で採れる岩は「石英斑岩」で、漁がダメになって多くの島民が石切りに従事し、朝鮮人が土方として土を運んでいたらしい。今の千円畑の近くに朝鮮人の掘っ立て小屋が立ち並んでいたという話もされたが、どこに行ってしまったのだろう。

整備した登山散歩道があり、行きやすそうな「ケンケン山」と呼ばれる山が「おきしま資料館」の背後から緩やかに稜線を伸ばしている。稜線に乗るための坂道を登っていると、右手には瓦屋根を隙間無く敷き詰めたのが見渡せて、進んで行くと、やがてこれまた狭い平地に詰め込むようにびっしりと並んだ墓石が左手に見えてくる。
この山は「ケンケン山こちら」「見晴台こちら」と看板が一定距離で立っているので、迷うこともなくケンケン山から宝来山へ尾根伝いに歩いて行くことができた。
※宝来山見晴台より、1本松と湖南の近江八幡市を望む。地形がよく判る。

「行き止まり」という看板がご丁寧に立っていた。宝来山見晴台から隣の山には行けないらしい(道がないだけで、行けなくはないと思うが)。その代わり、下山コースを案内していて湖水浴場や弁財天側に降りる方角に矢印をつけていた。素直に矢印に従って下山することとし、猿の腰掛やキノコやヌベを見ながらどんどん降りて行く。
降り立ったのは港から東にある湖辺でほとんど平地はないが、雰囲気は良かった。千円畑と違ってごちゃごちゃとした畑に、くねくねと使いやすいように渡した三輪車特化の幅を取った板の小路、港に向かって進んでいくと家屋が見え始めるが物干し竿やらこわれたバケツの菜園やらが雑多にかつ無造作に通路に置いている。


その中にあって、浮いていたのが立派な建物の小学校だった。島民の子が2人と、島外の子が17人通っている話を「おきしま資料館」の人から聞いていた。学区制限がない特別条例(?)の学校で、教育体系がユニークなためにわざわざ通わせたいと望む親がいるんだとか。
確かに、昭和のたくましさや大らかさを残したようなこの島なら、頼もしい人間像が期待できるかもしれない。

そして本土に戻る。宿泊予定地の長浜へ到着した時にはすでに真っ暗になっていた。長浜駅前の商店街も開いている店がなく、唯一、パトランプの賑やかな飲食店に入って行ったが、スーパーで購入した丁稚羊羹と伊吹牛乳のほうが濃厚でうまかった。コーヒーのドリップパックタイプもちゃっかり購入、伊吹牛乳を少し足したコーヒーで明日の朝を迎えよう、と思いながら眠りにつくのである。




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