2018年10月 向日町散歩


好天に恵まれる秋の日、ひと時の癒しを求めて京都の向日町へとやってまいりました。
今回訪れた向日町という地域は、桂川が淀川へ合流する低湿地帯に突き出た丘陵で、東に平安京、西に山崎の津、眼下に長岡京と乙訓宮が存在します。特に西側に存在したと思われる乙訓宮の防衛線としてはとても重要な所だったのではないでしょうか。

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向日町駅から道沿いにひたすら西へと歩いていくと丘陵地帯にぶつかります。そこが現在では写真のように住宅の密林となっており、本物の密林の所が桓武天皇皇后陵(高畠御陵)であらせられます。

丘陵地帯に沿って南北に走る写真手前の国道の道幅がかなり狭く、道の両脇のポールが車のタイヤに摺られたような跡で黒くなっていました。こういう無秩序さが京都らしいといえるのではないでしょうか。

丘陵沿いに南へと進んで行くと図書館とセットになった向日町博物館があり、現在は向日神社展が開催されていました。

開館時間が10時と少し遅いのも京都らしいのかもしれない。「がんまつ」ではなく、「ごりがん」と言われるものなのかもしれません。
展示は小さめの部屋が2つあり、1室は向日神社の宮座の祭りの風景の展示、もう1室が向日町の歴史の展示をしておりました。
その中で目を引いたのが、向日神社の神主、六人部(むとべ)氏が集めたと思われる「向日神社本・日本書紀・神代紀下巻」、奥書には延喜4年(904)と書かれており、日本書紀の写本の中では最古の年代。室町時代初め頃に奥書も含めて筆写されたものと推定されていますが、一巻分まとまった分量があることできわめて貴重な写本とされているそうです。
もう1つ気になった展示として「山科家礼記」がありました。向日町地区では「西岡衆」なる人々が存在し、幕府に対し徳政を要求する土一揆の多発地帯でした。その西岡衆が向日神社をたまり場にしていた記事が「山科家礼記」に記録されているのです。
この向日町近辺では貨幣経済が浸透していたという事の証明だと思われ、貨幣や流通による民衆の生活の変化というものにも興味を持たされました。
目を引いたのはこの2つくらいでしたが、小さな展示室ですし無料なので、イメージを膨らませるためにも是非ともご来館くださいませ。

資料館の入口付近には埴輪と古墳の天井石が展示されていました。付近の開発のおりに発見されたものを住人の方がもらい受けて保存し、後々博物館に寄贈したようです。
写真は「元稲荷古墳」の天井石です。泥岩のように見えるのですが・・・、答えは書いてませんでした。

昼ごはんは東向日駅の激辛なんとかというネタ料理(話題作りか?)を食べてしまいショック。近頃は味とか安さよりもネタに走っているようです。
昼食後は東向日駅から向日神社へ西国街道を歩いたのですが、その西国街道から向日神社境内付近にはスマフォ―を操っている人が多くいました。ポケモンをやっているようにも見えましたが何をやっていたのだろう?激辛とポケモンというネタに走る京都らしい「ごりがん」の風景かと思いました。

さて、そんな人々の風景を見ながら意外と急坂である「西国ごりがん街道」を進んでいると、先ほどのタイヤ跡がたくさんある「新ごりがん街道」へとたどり着きます。その道沿いに向日神社の鳥居があり、それをくぐって坂を登り本殿へとたどり着きます。写生の時期なのか石畳の道や木造建築を、参道や境内に植えられている様々な樹々と共に描き、今の季節を表現しようと苦心しているように見えました。

向日神社は混み合っていて色んな人がそれぞれの楽しみを謳歌しているようでした。色んな楽しみを持った人が同じ場所で無秩序に楽しむというのも京都らしさの表れだろうと思います。

そんな神社の外れに弥生時代の高地性集落跡があったようです。その高地性集落跡から西側は絶壁となっていて、なだらかな東側とは少し趣が違います。見晴らしもとても良いところでした。写真の右側、屋根のような山が高槻側で天王山、左側のなだらかな丘陵が枚方の男山です。その間を淀川が流れ山崎の津として重要な拠点だったのです。
この風景は古来よりの風景かもしれません。規模は違えど人が集まり、物流の拠点となる倉庫群などもあったと思えます。物流や二次加工に携わる人々が貨幣経済を必要とし、そこに高利貸しや遊女等さらなる職が生まれ、消費都市として機能し人生を楽しむ人たちがいる。
度々徳政を要求した「西岡衆」が生きていた姿が見えてきそうなこの町並みを見ていると、現代の西岡衆がこの地より生まれ、新たなる歴史が刻まれることを想像してしまいます。その時も、きっと、向日神社で決起していることでしょう。

向日神社の裏側から古墳巡りの始まりとなります。その第一弾が写真の元稲荷古墳です。こちらは公園となっていて、小さな区画で大きな人生を謳歌している子供とお母さん方がたくさんおられました。


説明看板から抜粋します。「3世紀後半ころにつくられた最古の大型前方後方墳で、墳丘全体が小畑川から採取した礫を詰め込み石の山のように築かれています。同時期に作られた神戸市西求女塚古墳と形と大きさを同じくしています。竪穴式石室で板石を積み上げて家型となるようにつくられており、他に例を見ない特徴を有しています。江戸時代の大きな盗掘により、鏡をはじめとする宝器の多くは失われていました。」
竪穴式石室で、細く割った岩片を積み上げています。狭い見解ではありますが、桜井市の黒塚古墳と似ております。床のシミのようなものもおそらくは辰砂であろうし、盗掘されていなければ銅鏡もたくさん出てきていたかもしれません。

元稲荷古墳からどんどんと北側に進みます。消滅した北山古墳、競輪場を通り過ぎ、住宅街へと入り込んだところに五塚原古墳が存在しました。
説明看板から抜粋します。「古墳時代前期の前方後円墳。後円部の一部が住宅建設によって破壊されています。本格的な調査は実施されていないものの、電気調査により後円部に1つ、前方部に1つ墓穴があることが判明しています。」
古墳時代前期で大きさも似ているので、先ほどの元稲荷古墳と同じような石室をしているかと思います。石室があることの確認もされているのでいずれ調査に入る事になると思われます。現在は立ち入り禁止だったので先へと進みます。

住宅の中を進み坂道をどんどん北へと上がっていくと、桓武天皇皇后陵である高畠御陵がおわします。5世紀前半の古墳らしいのですが、8世紀台の桓武天皇の皇后様なのです。すごい長生きですね?
ここから西へさらに登ると、この付近で一番大きいとされる妙見山古墳があったのですが、竹の養殖での土取りの為に消失してしまったのだとか。少し我慢していれば文化庁からお金ももらえただろうし、名物にもなっていたのに惜しい事をしました。
この付近から竹の道というイベント?か、ネタ?のような事をやっているようで、道路わきに竹の柵を飾ってありました。そんな道を歩いているとこちらの寺戸大塚古墳が見えてきます。

説明板より抜粋します。「古墳時代前期の前方後円墳。前方部、後円部共に竪穴式石室で、石室内から和製の銅鏡や中国製の三角縁神獣鏡などが出土。特に三角縁神獣鏡は椿井大塚山古墳出土のものと同氾関係にある。現在は竹やぶの土入れのため前方部の大半が失われている。」
椿井大塚山古墳は京都の木津川市にあり、銅鏡がたくさん出土したところです。黒塚古墳でも銅鏡がたくさん出土するまでは卑弥呼の銅鏡かとも言われてたらしいです。それと同氾関係(同氾とは同じ鋳型から作ったもので、同型とは鋳型をいくつも作ったもの)にあるのだから、なんらかの関係はあったと思われます。が、関係ないこともありえますよね。

古墳の破壊についてですが、向日町は竹の名産地で竹の養殖をしておるのです。いい竹に育つ為にはフカフカの土が必要らしく、土を取ってかぶせたりしなくてはいけないのです。そのために古墳の形が無くなってしまっています。

この写真のように段差のある所があちこちにあったので、なんだろう?塹壕か、土塁だろうか?と、思っていたら竹の土取りだったのです。まさかここまでして竹を養殖するとは思ってもみなかっただけに少しびっくりしました。

竹の道から外れ東の緩やかな坂を下って行きます。しばし進んで学校があり、その向かいの墓場にこの南条古墳が保存されておりました。

こちらは発掘されていないのか詳しい説明は書いてませんでした。ただ、この付近にはこのような小さな円墳がたくさんあったが、住宅開発のためほとんどなくなってしまったとのことです。ひょっとすると千塚のようにあったのかもしれません。

ここからは物集女という集落に入り、住宅街の中での探索となりました。案内看板などが設置してあって、指示通りに豪族居館跡や物集女城跡、淳和天皇火葬塚を巡りました。
少し気になった物集女城跡ですが個人の土地らしく立ち入り禁止でした。この城は中世にこの地域一帯を本拠としていた国人物集女氏の居城で、戦国期に細川藤孝に暗殺されてしまったようです。遺構として土塁と濠があるようですが、遠目で見た限りは分かりませんでした。
その物集女集落で一番の目玉が物集女車塚古墳でございます。子供が段ボール滑りをするほど親しまれているところであります。

こちらの古墳は前方後円墳で横穴式石室が存在し、石棺は龍山石という兵庫県の石と二上山の凝灰岩を使っています。内面にはベンガラが塗布されていて、副葬品も多数出てきたそうです。その中で金銅製冠や三輪玉などの出土品から紀伊周辺と関係が深く、滋賀県や福井県の古墳とも強い共通性がみられるとのことでした。
大和朝廷とは一線を画しているという事が言いたいのだと思いますが、継体大王につなげたい意思が先にあるような気もします。

帰り際に古墳の横の道を通っていくと、写真のような排水口が出ていることにびっくりした。排水溝はどの古墳にもあると思うのですが、排水口まで含む設備を展示しているのは保存状態が良かったからなのでしょう。

排水溝は玄室から羨道を通りしっかりと作られておるようです。排水溝の上に石を置いて暗渠になるようにもされていました。復元になるが実際に通しているようで、長雨が続いた時には少しづつ水が流れ出るようです。
使用石材がチャートかメノウのようで石組に使われているのは珍しいんじゃないかなと思いました。

向日丘陵は住宅開発により虫食い状態で山の体をなしてはいませんが、人はたくさんいて活気があるように感じます。養殖竹で古墳を壊したけれども、それが名物となっております。
文化財保存の第一人者である河内飛鳥は、ブドウ畑という名産品と古墳保存を両立させているところがすごいと思います。





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