旅行で気づいた中国人民についてD


ほとんど聞き取る事ができない中国語。今回はその中国語を素人ながらに考えていきたいと思います。

日本語とは発音がまったく違いますが、同じ東アジアとして常に密接に関わってきた為、日本へも色々な中国語、又は漢字が入ってきております。漢字を使えばある程度の意思疎通はできるものの、言葉としてはまったく通じあうことができません。
さらには、明治維新以降の断絶や西洋文明との関わりにより、日本人が中華圏に対して興味を失っております。それゆえ、ニーハオとシェシェ以外はまったく中国語を知らない状況であります。
これは中国にもいえることで、日本語に対する理解もなく、日本人には漢字が一番通じやすいのに、漢字が通じると思っているふうでもない。町のそこかしこには英会話教室が存在しているが日本語教室は無い。また、空港の入国審査では英語も中国語も通じない私たちに対して、満を持して登場してきた日本語が話せるはずの中国人審査官も、ほとんど日本語がしゃべれていませんでした。あげくの果てに「イイベンレン?ジャパーン?」とおっしゃる方もおり、日本人と中国人の断絶感がよく分かります。

中国語に関してだけではないのですが、自分の周りの日本人に中国人の話しをしてみたところ、あまり良い印象を持っていないようでした。その理由の1つに発音があるのではないかと思います。口を大きく動かして発声し吐きっぱなしているように聞こえる中国語は日本人にとっては騒がしく聞こえるのでしょう。
現在の日本人が「あの時代は良かった」と昭和の話しをします。それがまさに現代の中国とそっくりなのです。昭和後半から平成時代に於いて、マナーと安全安心を叩きこまれた日本人は、いつの間にか「騒がしい」という、ただそれだけの理由で人を忌み嫌うようになったのであります。

聞きとれないなりにも日本人でも分かる言葉があります。
それは「ブヨウ」、又は「ブヨブヨ」です。「不要」と書き、「必要ない」というそのままの意味です。
バスの乗り換え時の値段は2元必要か聞いた時は「ブヨブヨ、ブヨウシュー」と答えられましたが、他の言葉はまったく聞き取れなかったのにこの部分だけはしっかり聞き取れました。

上の写真は宜昌美術館で、受付をしていた大学生らしき男性に入場料が必要か聞いてみると、口をとがらせながら「ブヨウ」と答えました。これもしっかりと聞き取れたのですが、その後の色々言われたことはほとんど聞き取ることはできませんでした。若いだけに柔軟性があるのか、お互いに一生懸命身振りをしてどうにか最低限の会話ができたように思います。

この「ブヨウ」は使う機会が多く、スーパーで買い物をした時に「ガミガミ」となにか言われるのですが、「ブヨウ」と一言いえばそれですべて解決します。「ガミガミ」言われて関わりたくない時は「ブヨウ」、コミュニケーションがとりたい時はメモを差し出す。どちらにしても相手の中国人は黙ることでしょう。
もう1つ中国人が黙る方法があります。それは「不明白(ブーミンパイ)」という言葉で「分からない」という意味です。しゃべりかけられたときにこの言葉を使うと相手はそれ以上しゃべりかけてこなくなります。旅行中にコミュニケーションをとらないというのはダメな行為ですので、この言葉を使うときは気をつけた方がいいと思います。

上写真で料理を食べた時の事、若い女性の店員が必死に料理の説明をしてくれたので、帰りに「シェシェ」と御礼を言ってみたところ、「ブヨウシェ(どういたしまして)」と小さな声でムスッとした顔で言ったのです。こんな小さな声でも聞き取れるのかと驚きましたし、日本語と同じ「不要」だからこそ聞き取れるのだと思いました。

「シェシェ」に関しても聞き取れるのですが、ほとんど使う機会がないのだと思われます。コンビニで椅子を譲った時と、バスが閉まった後に慌てて入って来た客の2人しか「シェシェ」と言っている人はいませんでした。
上で述べた店員もあまり言われることのない言葉を言われて、照れてムスッとしてしまったのだと思います。

定番の「シェシェ」があまり使われないのと同じように「ニーハオ」というのもほとんど使っていないと思います。私が出会った「ニーハオ」は下写真のぼったくり珈琲屋のみでした。

とても中国とは思えないような愛想の良い店員が居て、入ってくる客にいちいち「ニーハオ!」と声を掛けるのです。珈琲2杯で83元だったのですが、私たち外人にも聞き取り易いように、しっかりとした発音で「パーシーサン」と値段を言ってくれました。このように細やかな気遣いが代金に上乗せされ、「お・も・て・な・し」などと調子よくしゃべる滝川クリステルと珈琲店員のイメージがかぶります。彼女の不自然な笑みと大きな声の挨拶は、屈原に言わせれば「酔っている」ということになりましょう。
もう一つ宜昌の高級ホテルで朝出かける時にホテル従業員が「ザオハオ」と優雅な挨拶をしてくれましたが、これもおそらく高級ホテルだからやっているだけだと思われます。武漢で泊まったリーズナブルホテルではそういう事はありませんでした。
このように特別な場面以外で「ニーハオ」を聞くことがありませんでしたし、日常的な挨拶ではないのだと思います。

現代の中国が日本の昭和だと逆算して考えてみると、今では当然のように使っている「こんにちは」や「ありがとう」という言葉が昔は使われていなかったのだと想定されます。自分が小学校の時代を思い返してみると、「ありがとう」って言えるかい、「おはよう」って言えるかい、という歌が校舎に流れまくっていた記憶が蘇ってきます。
そうです。私たちはオウム真理教の「修行するぞー」と同じ、マインドコントロールというやつを食らっていたのです。今では何故かマナーだとか言われてしまい、挨拶が言えないようなやつはおそらくいじめにあったり村八分されたりするのでしょう。
おお、なんとも恐ろしい世の中であります。日本風労改といえるものかもしれません。

そのほかにいくつか聞き取れるものがあります。武漢では家族連れが多く、よく「ソウバー」と言っているのを聞きました。これは「行こう」という意味で家族に対して「さあ、行こう」と使っていたと思われます。
「トゥイトゥイトゥイ」という言葉も聞き取り易いです。宜昌の客引きの女性がこれを使うので「yes?」とメモで聞いてみたところ、そうだ、という返事でした。おそらく「そうそうそう」のような感じで使っているのでしょう。

日本人に興味をもったわけではないと思いますが、発音がおかしいからと教えてくれる人達もおりました。


上の写真二つの店は同じ宜昌市内でのお店で、大衆食堂と今風の珈琲屋です。
「旅行で役に立つ中国語」といったたぐいの本では「ハオツゥー」や「ハオチュウ」と書かれていたので帰り際にハオチュウと言ったのです。すると、発音がおかしいと思われたようで、「ハオツッ」と指導されました。「好吃」とは「美味しかったよ」という意味です。日本人では気づかない発音なので日常的に使っているかどうかは分かりませんが、少なくとも、好吃と言っているような雰囲気の中国人はおりませんでした。

下の写真は武漢のペンロン城址公園です。ここでは掃除をしているおばさんに声をかけられ、なぜか「チョングオレン(中国人)」と「イイベンレン(日本人)」を指導されました。この発音は大丈夫だと思っていましたし、聞いたとおりに発音しているのですが、微妙に違っているようで何度もやり直しさせられました。それでも納得できず、違う違うと、笑ったままお別れすることになりました。


武漢の食堂では親日家と思われる人に指導されました。やたらと愛想が良い店主で、外のメニューを見てる時からやたらと声を掛けてきてました。この頃はすっかり中国に慣れていたので、愛想が良すぎる事に不信感を抱いていたのですが、ここの店主の妻は日本に行ったことがあり、妹の夫はウクライナ人でいつもスマフォー変換でやりとりをしていると聞き、なるほど国際的な人なんだなぁと誤解を解いたものでした。
私たちが注文した飯を食べていると、どこかから聞いた事のあるような声が聞こえてきます。日本語のテレビを見ているのかと思い、店主に聞いてみると、「ヒカルの碁」という日本のアニメを見ていたようでした。30代と思われる年齢の人でしたが、彼が子供の頃、日本のアニメを見て育ったらしいのです。今の中国の子供は中国のアニメを見てるらしく、それが少し寂しいという話しをしていました。
そう、彼は親日家ではなくアニメ好きだったのです。そういえば日本のアニメは世界的に有名らしく、各国のアニメ好きが日本のどこかにあるアニメの聖地に集まったりするのだとか・・・。

さて、そんな彼に指導されたのが、武漢名所の「黄鶴楼」であります。「フェィクゥッロウ」といい、強い口調で吐きっぱなしで発音します。スマフォーを使い「あなたたちの舌は巻かれすぎている」と指導されながら、結局、相手が納得する発音はできませんでした。次のお客さんが来たことで指導は中断されましたが、また次回も指導されに行ってみたいと思っております。
この「黄鶴楼」の発音をネットで聞いてみたところ、「ファンフゥーロウ」という発音をされていました。この違いは方言のような訛りのようなものであると思われます。このようなことがある以上発音に対してはあまり敏感になる必要はないのかもしれません。

今の日本ではあまり聞かなくなってしまいましたが、昔の日本でも方言というものがあり、学校教育に於いて「普通語を使いましょう」などという貼り紙が使われていた時代があったのだとか。まだまだ方言が残っている中国はまさに「古き良き?昭和の時代」だといえるのではないでしょうか。

日本では口の中にこもるような発音をするので、吐きっぱなしの発音の中国語はきつく聞こえがちですが、実際に声を掛けられてみると、語気の強さから表現されるような強い感情はまったく感じませんでしたし、むしろ必死に伝えようとしているようにも見えました。結局のところ、聞く側の気持ちの持ちようで、感じ方がまったく変わってくるということになります。
このように断絶感がある両国ではありますが、気持ちの持ち方1つで通じ合うこともできるわけです。漢字を使えばコミュニケーションも取れるので、習慣の違いを楽しむ余裕さえあれば、また良い影響を与えあうことができるのではないでしょうか。





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